E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

読み手も書き手もあかんようなって新聞は無用になりつつある(3)

 新聞記者が記事を書くに当たって、公正中立の立場を取らんとあかんのは言うまでもないこっちゃが、その基本中の基本が「花形記者」て言われとったんに全然でけてへんかった実例を挙げてみたろか。


 1980年の読売やったと記憶するが定かではない(マスコミ関係者は、読売、朝日、毎日の3紙は必ず購読するんで。当時、産経は新聞であると看做されず、日経同様、業界紙に毛ェの二三本生えた「産業経済新聞」の後身「サンケイ新聞」やった)。何しか、一本の記事の表題見て驚いた。


ソ連帝政ロシアと変わりない」


まだ単純な中学生やったわしは親父に「どういうこっちゃ?」て聞いたが、「そこに書いてあることは間違いじゃないと思うよ」て返ってきて思わず「ホンマけ!?」ちゅうて、にわかには信じれんかった。


 せやけど、81年に、ヴォスレンスキー「ノーメンクラツーラ」が訳出されて、旧ソ連では共産主義の要諦であるはずの「プロレタリア独裁政治」が施行されたことが1日としてなかって、王侯貴族に代わって「レーニン親衛隊」、レーニン没後は帝政ロシアのスパイ出身のスタ公の「ノーメンクラトゥーラソビエト共産党中央委員会書記・政治局員からなる集団。特権階級)」が連邦を支配したちゅうことがわかってんやんけ。これで、ソ連邦の世界支配に手ェ貸しとった「役に立つ白痴」の大半が覚醒することになってんやろうから、その衝撃波はえげつないモンやったろう。


 本来やったら、こないした衝撃的な事実をインタビューとかで聞き出すんがジャーナリストのあるべき姿やねんけどな、そん時に東側を専門に扱っとった記者が何やっとったんかちゅうんが問題やねん。この当時、花形記者いうたら朝日の本多勝一か毎日の内藤国夫兵庫県出身やけど将棋指しでも演歌歌手でもない。創価学会批判のあおりで80年ごろ辞表提出)て言われてたらしいが、本多が何故花形記者て言われとったんか、新聞の熱心な読者とは違うわしやけど、わしにはさっぱり理解でけんのである。


 ヴォスレンスキーは旧ソ連から旧西ドイツに亡命した歴史学者やそうだが、当時のソ連かぶれの知識人の間では、このテの人物を「敵側に寝返った奴」として敵視する傾向があって、インタビューするに値しないとする空気が充満しとったみたいや。んで、本多はその間何さらしとったかちゅうたら、「××はどうなっているのか」シリーズを執筆する目的で、××国(主に東側の国)に乗り込んで取材しとったらしい。


 でもな、そこが本多の凡庸なとこやろう。社会主義国で取材の自由なんかあるわけあらへんし、「何でも見てやろう」て北○鮮に乗り込んだはエエが、北の政府からあてがわれた取材先だけを見て、結局何も見やんと帰ってきた小田実と大して変わらんかったちゅうこっちゃないか。西欧のジャーナリスト連は、共産陣営に属する国に取材の自由なんかあらへんことは端から承知しとって、要するに現地取材なんかはアホのすることや。せやけど、社会主義建設が世紀の一大事業やと信じて疑わん本多みたいな連中はそんなん信じられんかったみたいで、「ベトナムはどうなっているのか」を書くために現地入りして、取材の自由があらへんのを知って怒って帰って、意趣返しにベトナムの悪口を書く始末なんである。本多は現在「金曜日」におるらしいが、「買ってはいけない」ちゅう、化学的無知丸出しのブックレットを出版し続けとるところからして、その宿痾は未だ快癒には至らぬようである。


 30年前ですらこの惨状やから、現在のブン屋のレベルなんざ論じるまでもあらへんやろう。日本では偉そうにふんぞり返っとる朝日も、所詮はアジアの辺陬の田舎新聞で、読売も毎日も、朝日よりかはマシかもしれんが、まあ目糞鼻糞の類であろう。そんな便所紙みたいなんを毎月4千円も払て定期購読しとるわしらもあかんねんけど、真っ当なマスコミが正常に機能しやんと、健全な「三権分立」ならぬ「四権分立」が期待でけん。優秀な人材が新聞社に来てくれることを期待するしかあらへんが、問題は社の上層部である。ここが昔よりさらに硬直しとるから読んでもおもんない紙面しか出て来ェへんのと違うか?そこで、新聞社の組織をどない改革したらエエかについての管見を披露して、このシリーズを締めくくることにする。まあ、権威主義に凝り固まってしもた組織が自己変革でけるとは思えんねんけどな。(つづく)