E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

読み手も書き手もあかんようなって新聞は無用になりつつある(2)

 新聞が発行部数を減らしとる理由は、表題にあるように、「読み手と書き手双方の知的水準(なかんずく文章力)の低下」が原因やろうとわしゃ思う。


 新聞の文章は、広く世間一般の人々に読んでもらうことを目的とするんで、中学生でも読めるぐらい平易でなかったあかんし、難解な表現や専門家にしかわからん術語をつこたりするんはもってのほかである。術語を駆使して専門家にしか読めん学術論文を執筆するんに大した文章力はいらんが、時に、日本の産業構造の変革を迫る可能性があるぐらいの画期的な発明なんかがあったりすると、全国紙の経済面とかに、その内容をわかりやすくかつ正確に記事にしやなあかん場合があるが、このテの文章は書くのが難しい。寺田寅彦の科学随筆が高く評価されてるんがようわかるちゅうこっちゃな。


 ところが、日本人のあかんとこは、「難解な文章を書く奴はエライ」ちゅう「迷信」が蔓延しとるこっちゃな。秋山仁氏が以前「週刊朝日」に書いてたコラムによると、「欧米の数学者は難解な内容の論文をいかにわかりやすく書こうかと努力するが、日本の数学者は逆で、自分はどんだけ難解なことを研究しとったかちゅうことを見せつけたいためにか、難解な文章で書きたがる傾向にある」そうな。こんなんではわが国はいつまでたっても「学術大国」にはなれんわて思たわィ。日本文化を「恥の文化」ちゅうたんはライシャワーやったかベネディクトやったかは忘れたが、こんなん見たら、わしゃ「日本文化は『エエえかっこしいの文化』か?」てツッコミの一つも入れたなるわい。全然関係ないが、辻元清美が国会で当時首相の小泉を「エエかっこしいや」ちゅうたとき、突然塩爺が答弁台に立って、


「あんたの方がエエかっこしいやと思う」


ハゲしく同感を覚えたものである。


 おもっくそ脱線してしもたが、ともかく、新聞にはわしら一般大衆にわかりやすく物事を伝達することを生業にしてるんやから、高度な文章作成能力が要求されることは理解でけることやろう。しかるに、「や○きの委員会」で宮崎が指摘しとったみたいな文法上の誤りを社説でしでかす論説委員に、その誤りをよう指摘せん論説主幹しかおらんような社ではあかん。動詞・形容詞・形容動詞などの活用のある品詞にかかる漢字の送り仮名は、原則としてその「活用語尾」のみを当てるルールがある。せやから「表す」が正しく、「表わす」は誤りなのであるが、歴史的経緯によって、「表わす」ちゅう表現が許容されとる事情がある。自動詞・他動詞が絡むと「変わる」「変える」という具合に、この原則は破られるんでややこしいが、文章の書き手は、現代文法のみならず古典文法の活用も覚えておく必要がある。「屈せず」と「屈さず」みたいに、現代文での古典的用法と現代的用法の間で揺れ動いとる表現もあるんで、これにも注意を要する。日本語は知れば知るほど難しい。


 せやから、新聞社も採用試験には是非ともこの辺を重点化しやんとあかんのである。記者は学者とちごて広範囲にわたる予備知識と好奇心が資質として要求される。自然・人文地理、歴史、政治・経済は無論のこと、文化史・犯罪史なども役に立つし、俳句・川柳・短歌・漢詩なども武器になろう。囲碁・将棋に興味があればなおよろし。日本や諸外国の芸能(人)なんかは、興味なかっても「ミヤネ屋」とかガマンして見とればどないかなるやろうが、例えば「Space battleship ヤマト」の原作者が誰であるかもわからんかったら、それはそれで問題があると言わざるを得んとは思う。せやけど、そんなんは大概知られてることであって、知識の価値としては低いやろうから、配点割合は低いめにしとかんとな。ブン屋に特に欠けてると思われるんは、諸外国の古典の知識、とりわけ中国の古典に関する知識やで。


 こないした知識の土台があやふやであれば、いかに優れた文章作成能力を持ち合わせとろうが、そんなんが書いた記事なんざ読む気もおこらんようなるんは当然のこっちゃろう。もう一つ深刻な問題もあってやな、トロッコ(半人前の記者への蔑称)は一度敷設した路線の上しかよう走らんもんで、一度偏向してしもたんを線形改良するんは不可能に近いものと見える。80年代までは朝日や毎日を中心にサヨク記者がようさんおったが、ラングーン爆弾テロ・大韓航空機爆破事件・89年天安門事件もあって、ようやっと熱が覚めた向きも多かろうと想像する。その時期までに、本来その内幕を暴くべき記者どもが何をさらしとったかを次に書くことにする。(つづく)