E-BOMBERのアホアホブログ

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「新しい日本の歴史」はやっぱしあかんかった(8)

 わしらが小中高生やった頃の歴史教科書は、唯物史観に基づいた作りになっとって、教科書を読んでも砂を噛むかのような味気なさしかあらへんかった。かっちゅうて、司馬遷の「史記」みたいに歴史は全て人物の営為によるモンやちゅう訳でもないやろし、理想的な教科書はその真ん中近くにあるんやなかろうかて推測がでける。




 マルクス史観では、貴族政権から武家政権への移行は歴史的必然であって、平清盛源頼朝もほかの人物との高い互換性があるみたいである。換言すれば、清盛も頼朝も歴史の傀儡人形やちゅうこっちゃな。




 せやけど、何で平氏が源氏に滅ぼされたんかちゅうたら、平氏摂関家みたいに貴族官僚化したからて説明でけるが、何で天下を取ったんが頼朝で、彼よりも先に挙兵した源頼政木曽義仲はあかんかったんやろかちゅう疑問は残る。それを説くことこそが歴史の醍醐味やなかろうか。それに全然触れてへん教科書なんか読んでもおもんないやろが。




 源三位頼政は自身が既に老境に達してて、おまけに多勢に無勢やったから宇治で簡単に討たれたて説明はつく。せやけども、入京まで果たした義仲があかんかったことは唯物史観では説明がつかんのではなかろうか。この二人も頼朝も以仁王の宣旨に呼応して挙兵したことはおんなしやけど、この宣旨ちゅうのんが曲者やった可能性がある。




 以仁王後白河院の第二皇子やけど、平氏との関係が薄うて親王宣下すらされてへん朝廷の日陰者やった。それが、後白河院政停止を機に平家打倒と自身の即位の檄を飛ばして、頼政らはそれに呼応して挙兵してんやな。




 以仁が宇治で敗死したんで、義仲はその子北陸宮(ほくろくのみや)を奉じ、入京してからこの宮への譲位を院に迫った。義仲からすれば、平家が謀叛人やさかい、平家に近い高倉・安徳は排除して、平家と戦って死んだ以仁の遺子こそ皇位を継ぐべきと考えた訳やが、院からしたら、「分際を弁えず院を差し置いておのれの即位を宣言するとはなんちゅう僭上なやっちゃ」ちゅうことで、以仁も義仲も朝敵にされてしもた。




 頼朝も以仁の宣旨によって挙兵してるが、情報収集活動の結果、この宣旨に後白河の関わりがあらへんどころか院の反感を買うてることを知って、宣旨に乗ったことを隠すようなったそうや(河内祥輔「頼朝の時代」)。




 ナンボ中学生対象の教科書やからちゅうて、なして折角の歴史のオモロイ場面をへずってしょうもないこと書いとんねん。こんなんでは読者が中学出たら即ゴミ箱直行やろう。(つづく)