E-BOMBERのアホアホブログ

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(さらばアメブロ)竹村健一死去「歩く胡散臭さ」

暫くはこのブログサイトにて「さらばアメブロ」シリーズを書き続けることにするだ。

 

評論家の竹村健一氏が今月8日に死去したことが分かった。

 

このおっさん、正に胡散臭さが服着て歩いとるような存在で、その大阪弁の語り口がさらに胡散臭さを増幅しとった印象がある(武田邦彦みたいに標準語でも胡散臭そうなんはおるが、武田のおっさんの言論はよう聞いたらそない胡散くさない)。タモリなどは自身の番組「夕刊タモリ・こちらデス」で竹村の扮装で、

 

「竹村ですけどね、(中略)あのね、私お金もうた分しかようしゃべりませんから」

 

とか言うとったんを思い出す。また、「茶の間の無知につけ込んで胡散臭いことを言いやがって」と、おもっくそ竹村のおっさんのことをディスっとったな。

 

確かに竹村の言には常にどっかしら胡乱なモンが潜んどった印象がある。平成初年の頃に、「日本にも国際ハブ空港を造るべき」との主張を展開しとったときも、わしはそれを素直に受け止めれんかった。確かに、ハブ空港がなかったら、純粋な国際交通地理的な観点からしたら、「日本が世界の田舎になってまう」ちゅう竹村の主張は正しい。せやけどもや、当時の大型機 (B747) の騒音たるや凄まじいモンで、国土条件に恵まれん日本で滑走路が何本もあるようなハブ空港こしらえられた日には、一体どんだけの人が公害に悩まされんならんかちゅうことを考えたら、とてもやないがそないな言論を支持する気ィになれんかった。羽田の滑走路増設にしても土木技術の発展がそれを可能にしたこっちゃし、洪積層上を埋め立てた関空は沈下し続けたある。

 

竹村の胡散臭さは百目鬼恭三郎も『風の書評』で容赦なしに指摘しとった。これは別に、竹村が京大英文やったから、東大英文の百目鬼がライバル心剥き出しにしたようなこととは違うやろうことは最初に断っとこう。百目鬼は「いかがわしい本を簡単に見分けられる方法を伝授しよう」として、

 

「まず、やたらに外国語を使っている本は避けるべきである。つまらないことでも外国語でいえば、有難そうにみえるものだ」「また、”ヒゲ括弧”を多用している本も、まずニセものと思えばよかろう。ヒゲ括弧は、『このいいかたが、うさんくさいということを、お断りしておきます』という意味の記号なのである」「竹村健一の『クロスオーバー型人間の発想』は、この鑑別法がよくあてはまる本だ」「たとえば”ビューティフル人間”というのは、著者の造語で、銀行員然とした格好をしたキャバレーのマネジャーというように、外見と中身の違う二重の方向性をもっている人間のことなのだそうだ。が、外見と中身が違うというだけでどうして「二重の方向性をもつ」とか、「同時に違ったことが考えられ、行動できる」ことになるのか。まるでいい加減なので、ヒゲ括弧をつけたのに違いない」ちゅう具合や。

 

わしが思うに、二重の方向性をもつちゅうことはもっと内面的なモンやろう。例えばそれは複数の視座や幅広い視野の類であって、少なくとも竹村の言うようなチャラチャラしたんとは違うど。わしらブログ書きにしたとこで、物事を一方向ばっかから視るだけではオモロイ文章なんか書かれへんさかい、でけるだけ数多くの視座を持って視野をひらげようとしとるんやないか。

 

「この本で著者がいおうとしているのは、異質のものに接触して新しい視野をひらけということなのだが、読者がここに書いてある通りにしたなら、物事を深く、正確に考えることにできない、著者のような人間になってしまうだろう」てめっちゃ手厳しいが、これは竹村のおっさんの完敗やな。「異質なものに接触して新たな視野をひらけ」は禿同やけども、何でそれがキャバレーのマネージャーやねんアホ。こない浅薄な考えの持ち主でも「正論大賞」が取れるぐらい日本の言論界も人材が払底しとったんか。平成元年でもこのテイタラクやったら、ゆとり・スマホ世代の令和元年の言論人なんざもっとあかんやろな。