E-BOMBERのアホアホブログ

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速報・中共崩壊への道 (178)

韓国は相変わらず「日韓合意の再交渉」吐かしとるが、こんなん相手にしたら絶対にあかん。

 

しかしまあ、韓国にとっては日本は生命線やちゅうことぐらい、ナンボアホな韓国人でも分かってる思うんやが、何でこない強気に出れるんか。その理由を「恨(ハン)の文化」やとか「敖」の気性とかに求める場合が多い。確かにその側面はあるやろうが、それ以外にも、韓国人の計算ちゅうモンがあるんはまあ間違いあれへんやろう。

 

北○鮮の前の最高指導者・金正日は、学位論文を脱北した黄長燁・元朝労働党書記に代筆してもろたぐらいやから、知性や教養からはかなり隔絶したとこにおったんは間違いあらへんやろう。せやけどこいつは単なるアホではなしに、己の身や金王朝の安泰のための知恵だけはおもっくそ回る男やった。瀬戸際外交をしもって、核やミサイル開発の時間稼ぎに成功してんさかい、その才能だけやったら認めるに吝かやあれへん。

 

恐らく、韓国も日本に対してこの瀬戸際外交を弄しておると見られる。中国にとって北○鮮がバッファ(緩衝国)であるのと同様に、韓国も日本のバッファ層であることは現在でも間違いあれへん。話は少々脱線するが、日本の外務省HPは、大韓民国のことを以前は「日本と同一の価値観を有する重要な隣国」てウソ書いとったが、今では「最も重要な隣国」に書き換わったある。外務省も宮家邦彦がおったときよりかはほん少しはマシになったみたいやな。

 

つまり、韓国は自らが中朝露の支配下に入ってしもたら日本があむななることをちゃんとしっとった上で、国民感情の後押しもあって「こらチョッ○リども、ウリらを蔑ろにしたら痛い目見るんはおのれらの方やぞワーレー」言うとんねんやろう。でもな、鈴木貫太郎ちゃうけど、あんなんは「黙殺」するに如くはなしやで(鈴木が「黙殺」言うた事実はあらへんちゅう意見もあるが)。韓国軍など敵に回したかて大したことあらへんし、相手にするだけ時間のムダやで。

 

さはさりながら、韓国が「最も重要な隣国」であることは国防上間違いとは違うさかい、これまで繰り返し言うたように、韓国は生かさず殺さずが正しい。

 

「揚州が衰へると、南宋時代から、蘇州、杭州が代つて、天下の大都会となつた。(中略)就中宋末元初に於ける、杭州の繁庶は、宋末の呉自牧の『夢粱録』、元初の周密の『武林旧事』、乃至元時代の Marco Polo や Ibn Batuta の記録によつて髣髴することが出来る。当時城内の戸数三十万と称せられ、「杭州人一日吃三十丈木頭」といふ諺があつた。十戸毎に、磨米槌一分を損するものとして、城内三十万戸で、米を●(●=木+舂)く(引用者註:米を臼でつくこと。「椿」とは別字)為に、毎日三十丈の材木を損することを意味するに過ぎぬ。或は戸数百万に達したと伝へ、更に Marco Polo は、杭州の戸数百六十万とさへ記して居る。要するに杭城戸口の莫大であつたこと、設想に難くない。蘇州の繁華も亦、殆ど杭州に譲らなかつた」

 

もしか、蘇州・杭州の戸数がマルコ・ポーロらの言う通りやとして、しかもそれが日本の大都市みたいに人口密度が高かったとしてみィよ、とてもやないけど伝染病を防ぎきれん思うど。そんでのうても杭州いうたら年間を通して温暖な気候やし、それに当時の衛生状態を想像するに、風土病が猖獗を極めん方がおかしいやろう。せやさかい、この数字はかなり盛ったあるか、市域がべらぼうに広かったんか、それとも中国人のこっちゃから、汚した端から放棄して移転することの繰り返しやったんかもしれん。

 

「元時代を通じて、北方の都会は、蕭条を極めた。当時の鄭所南は、北支那の大都会と推さるる真定(直隷省)すら、その戸口蘇州の十分の一に過ぎぬといふ。鄭所南の記する所は、決して過当でない。『元史』の地理志を検しても、真定路の口数は、実に平江路(蘇州)の十の一に及ばぬ。南支那は清時代に、或は満州軍の南下により、或は長髪賊の騒乱によつて、痛く凋衰した。されど今日支那の大都会を見渡すと、矢張り南方に多い。北の大都会としては、北京(直隷省)、天津(直隷省)に続きて、西安陝西省)、太原(山西省)、開封河南省)等を数へるに過ぎぬが、南は上海(江蘇省)、蘇州(江蘇省)、南京(江蘇省)、南昌(江西省)、漢口(湖北省)、武昌(湖北省)、長沙(湖南省)、湘潭(湖南省)、杭州浙江省)、紹興浙江省)、福州(福建省)、広州(広東省)、寧波(浙江省)等、数多の大都会を挙げることが出来る」

 

元帝国は遊牧民族モンゴル人による征服王朝やったさかい、農耕民族である漢人の支配は全然上手いこと行かんかった。蒙古の支配者は漢人が農耕を続けるためには種もみを取っとく必要があることが分からず、種もみまで寄越せ言うたんで漢人は逃げたんやろう。結局、漢人は蒙古のかかるムチャな支配にブチ切れて、元を北方に追いやり(北元)、明朝に代わってんやったな。その土地の事情をしらん奴がそこを治めたらあかんちゅうのが、植民地支配を否定する理由の一つやな。

 

人類はほぼ例外なしに、気候温暖な地域に憧憬を懐く。南方を蛮族が支配しとった時代はともかく、中国が周辺民族を侵略した結果として版図が次第次第に南に膨らんださかい、民衆もそれに連れて南へ南へと行けるようなったんやろう。それに遼・金・元と北方から征服王朝が勃興して、漢人を圧迫したことなども手伝ってのことでもあってんやろな。(つづく)