E-BOMBERのアホアホブログ

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速報・中共崩壊への道 (177)

一昨日〈2日)の都議選では、驕り高ぶるあまり国民に向けて不誠実な対応しかでけん安倍政権に対して、都民が猛烈な勢いで鉄槌を下した。日本国民が怒って「落とすぞ」言うたらこないなるんじゃいアホめが。

 

そんでもこの内閣はまだ暫くは健在なんやないかな?何せ、安倍には中国・韓国・北○鮮ちゅう強い味方がおんねんからな。北などは、安倍内閣の存続を祈念してミサイルまでぶっ放してくれてんさかいの。こら安倍晋三、半島と大陸に足向けて寝たあかんぞアホ。

 

「先秦時代から両漢時代にかけて、繁華な大都会といへば北支那に限つた。長安、洛陽は申すに及ばず、邯鄲(直隷省(引用者註・現河北省))、大梁(河南省)、等中々の景気であつた。この時代を通じて、邯鄲は天下流行の中心となり、邯鄲の美姫の名声天下に喧伝した。西漢の末に、天下の商業殷盛の地に、五均官を置くべく、長安陝西省)、洛陽(河南省)、邯鄲(直隷省)、臨淄(山東省)、宛(河南省)、成都四川省)の六都会を選んだが、何れも南支那とは関係がない。

晋の南渡以後、南方の開発すると共に、建康は次第に繁栄を加へて来た。(中略)建康の繁華は、殆ど長安、洛陽に比肩し得るに至つた。隋唐以来、揚州即ち江都の景気日に隆んで、遂に支那第一の大都会となつた。(中略)最早長安、洛陽は、到底揚州に対抗することが出来ぬ。中山の名娼とか、邯鄲の美姫とか、北支那が美人の本場と認められたのは過去のこと、唐時代では揚州が、美人の本場として聞え、妓館娼楼、鱗次櫛比の歌楽境であつた」

 

三国志」を読んだことある人やったら、揚州言うたら淮河以南の沿岸で、袁術孫堅が争うとった地域(古代九州の一)を連想するかもしれん。せやけどここで言う揚州は江蘇省揚州市のことで、大運河開鑿で有名な隋煬帝(明帝広)がこの地で酣淫に耽った挙句に亡国を招いたことでもしられる。

 

ところが、揚州が殷賑を極めたんは盛唐までで、江戸末期のアホな旗本が「富士山よりも高い山」言うた安禄山と、安の配下史思明とによる大乱に際して、この都市で中東商人の大虐殺が発生した。その結果、これら外国商人は揚州を離れ、貿易都市としての賑わいは過去のものになったそうや。

 

この安史の乱勃発直前の唐は世界最大規模の経済力を誇ったけども、その後の中国の国力は坂道を転げ落ちる勢いで衰微して、現在に至るまで盛唐の勢いには至ってへん。国土が荒廃し、民衆の意識が未だルネサンス以前のレベルに留まったある中国が、再び経済大国の地位を取り返すことなんかまず不可能やちゅうことはこの連載で再三再四書いて来た通りや。

 

中国が米国を上回る国力を得るためには、中国人の意識を現代人に改造する必要があるけども、それが成功する見込みは極めて薄い。一部の人が「日本に学べ」言うたとしても、それが単に掛け声に終わるんが中国の日常やし、学校で反日教育を行い、一般家庭で抗日神劇が大人気を博する中国が、近代国家に脱皮でける訳あらへんのや。(つづく)