E-BOMBERのアホアホブログ

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速報・中共崩壊への道 (176)

過去にも繰り返し書いたように、生産工学の説くとこによると、国が近代化するための要件に「農民が土地に安定して居住すること」がある。せやさかい、王朝交代のたんびに農民が土地から引っ剥がされて「客家」になってまうような国が近代化でける訳あらへんのや。しかもや、中国国内の工場の労働力の大半が出稼ぎの農民工で占められたあるんやから、ますますもって近代産業国家へ向けての離陸なんかでけんわいな。せやからわしは、「2030年代に中国の国力は米国のそれを凌駕する」なんて吐かす評論家はアホやちゅうねんやんけ。

 

これまでこの論文で見て来た通り、中国の歴史は民の国内移動の歴史でもあるんで、その地域的な気質の分析は難しく、それが徒労に終わる可能性が極めて高いことが明らかや。ただそれはそれとして、桑原先生のこの論文にはまだ興味深いことが書いたあって、日本人にとってもそれをしっとくことが有益やないかて思われるんで、続けてこの論文の紹介を行うことにする。

 

中国を華北・華南に二分した場合の、その戸数の変遷がオモロイ。西漢元始2 (AD2) 年、北965万戸、南111万戸(比率9:1)、西晋大康元 (280) 年、北149万戸、南65万戸(7:3)、唐天宝元 (742) 年、北493万戸、南257万戸(6.5:3.5)、北宋元豊3 (1080) 年、北459万戸、南830万戸(3.5:6.5)、明隆慶6 (1572) 年、北344万戸、南650万戸(3.5:6.5)やそうや(どーでもエエが、何でこのIMEは「万戸」と繰り返し打ってんのに「漫湖」に変換されるんやろか)。

 

ともかくも、三国鼎立による戦乱があったにせよ、西晋の戸数及び人口の激減たるや凄まじいモンがある。このダイナミックなとここそ中国史の魅力ちゅうたらせやけど、住んでる民の立場からしたらえげつないにも程がある。魏晋南北朝、武周革命及び韋后の混乱を経て盛唐期になってもまだ西漢よりも戸数が少ないことも驚きやけど、南部の版図拡大があったことを考慮したかて、北宋期の南北完全逆転は、やっぱし同一国家としては異常極まりないと言わざるを得ん。

 

かような具合で、中国の民は易姓革命の繰り返しの中で翻弄され続けて来た訳やな。せやから中国の民草には国家に対する怨恨が鬱積しとったかておかしないし、況してや国家に対する忠誠心なんぞ望むべくもあれへんわな。せやから中国巷間に「上に政策あれば下に対策あり」なんて格言があるんやし、国民に団結力があらへん「砂社会」が現出してまうねんな。(つづく)