E-BOMBERのアホアホブログ

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速報・中共崩壊への道 (175)

ここ3月ほどブログ書かん間に、北東アジア情勢は一層流動化が進んだのう。米国のトランプ政権はまるで日本の北にある某国の首領様みたいに閣僚に忠誠心を求めるようなったし、韓国では文在寅なる男による反米反日親北政権が誕生した。北は北でミサイル発射実験を止めようとはせんし、中国はこれまでムリから続けて来た国内経済成長の限界を迎えようとしとって、一時の威勢の良さが次第に影を潜めようとしとる。

 

こんだけの環境が整ったあるんやさかい、何も起らん方がおかしい思えて来るわいな。せやから日本としても備えを万全にしたいとこやけども、安倍晋三行きつけのそば屋から「かけ」と「もり」のメニューが消えたやなんて囁かれとるぐらいやから、やりとうても何もでけん。こら菅義偉文科省から出て来た「怪文書」のこと何とか吐かせアホンダラアホ。

 

西漢司馬遷は、

 

夫斉魯之閑於文学。自古以来其天性也(『史記』百二十二、儒林伝)。

 

と評して居るが、こは秦漢時代に於て事実であつて、唐以後には通用せぬ。(中略)明清時代を通じて、この方面の人物蕭条たることは、うたた今昔の感に堪へざらしむる。之に反して明清時代に於ける、江蘇、浙江の人材の輩出は、誠に驚くべきである。天下の人材の大半は、この二省から出て居る。乾隆帝が嘗て、「江浙為人文淵薮」と評されたのは、近き五六百年に亙つて、動かし難き事実と認めねばならぬ。清の中世以後になると、湖南、広東方面からも、中々人物が輩出して来た。要するに支那時代の人材に就いて論ぜば、北は遠く南に遜り、古代の文運に就いて観れば、南は遠く北に劣る。これが山にも比すべき鉄案である。

支那の文運は絶えず南進して居る。支那の歴史は一面から観ると、漢族の文化の南進の歴史ともいへる。魏晋以前に於ては、支那文化の中枢は北支那に在つた。南宋以後は、支那文化の中枢は南支那に移つた。東晋以後北宋末期に至る約八百年間は、支那文化の中枢の移動する、過渡期と認むべきものと思ふ」

 

正に中国の歴史は、為政者もせやけども民の移動の歴史であって、これが天子から民に至るまでずっと固定されたあった日本と大きくちゃうとこやな。少なくとも大陸における民の移動は「盲流」と称されて現在も続いたある。これはつまり、中国人の気質の地域研究をしたかてあんまし意味があれへんちゅう結論に導かれるちゅうこっちゃな。

 

ただ、これによって、中国人の全体的な気質を大づかみながら理解でけることだけは間違いなさそうやな。王朝交代の度毎に民衆の大移動が起こるために民は総じて根無し草になったあって、その思考パターンは刹那的になる傾向が強く、物事を中長期的に考えれんようになってしもたある訳やな。

 

かような民衆をかき集めて軍隊を組織したかて、目先の利にのみ聡い連中やさかい、彼らの発揮でける勇猛さは日本の旧陸軍歩兵第八連隊(大阪)や同第九連隊(大阪、伏見、京都など)程度になるんが関の山やろう。かような部隊相手には、緒戦でややコケ威し気味の戦法で怯懦の念を懐かせるとかが有効やろう。日中戦争当時、国民党軍は旧日本軍の勇猛果敢な戦闘に怯え、それ以上に共産党軍は国民党軍の後ろに隠れとったちゅうんやからな。(つづく)