E-BOMBERのアホアホブログ

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速報・中共崩壊への道(141)

戦時中の日本では、戦争に批判的な意見を述べる者は「赤」呼ばわりされ、つまり共産主義についての認識が極めてあやふややった。児島襄によると、当時の日本は民主主義までも「赤」の範疇に入れられ、「共産主義は良い。民主主義だからな。でも、やり方が良くない」ちゅう、現代人のわしらからしたらワケワカメな評言が受け入れられとったそうや。

 

立憲君主制を良しとしておったであろう京大生S君にすれば、民主主義も孫中山三民主義共産主義に近く見えるんは当然のことやったかもしれん。それにや、総ての人民が平等をタテマエとする共産主義と、主権が人民にあるとする民主主義との認識が縮退するんは、国体を脅かすとしてこれらを排斥しようとする風潮の中ではむしろ自然のことやったと見るべきやろう。

 

B 支那の赤化

 

〔問〕国民政府の信条とする三民主義は、即ち共産主義でなくとも、共産主義に可なり接近して居る。その国民政府の成功と、赤化防止を標幟とした張作霖の失敗とは、尠くとも支那赤化の機会を容易ならしむる様に思ふ。今後支那は赤化の恐ないであらうか。

 

〔答〕支那の赤化問題は、この数年前から相当世間の注意を惹いた。支那の智識階級は多く赤化の可能を否定して居る。中にも梁啓超が嘗て、『改造』誌上に発表した、「歴史上中華民国事業之成敗及今後革進之機運」といふ論文が有名で、この論文は当時内外に喧伝され、私も之に関する批判を公にしたこともあるが、当面の問題に関係が多いから、茲にその大要を紹介する。

梁啓超の立論の根柢には左の三点に在る。

 

(一)人類平等の思想は支那の特色で、この思想は又よく支那で実行されて来た。支那では戦国以来、貴族平民の区別が消滅し、漢以来支那の国民は、政治上でも法律上でも、すべて平等の位置にあつた。されば階級制度の結果として起れる過激思想は、階級制度がなく特権階級がなく、公権も私権も一切平等の行はれる支那に浸潤し来る機会があるまい。

(二)政治上の不干渉主義は、支那国民の伝統的信条である。垂拱無為とか与民休息とかが政治上の理想である。支那では政府の干渉は最小限度に止むべきものとなつて居る。換言すれば、支那国民は数千年来みな無政府主義の信徒である。若し政治が必要以上の干渉を行ふ場合は、善悪如何に拘らず必ず失敗する。これが支那の特色である。さればマルクスの理想とし、レーニンの実行する集権的社会主義を、支那に輸入しても、支那人の国民性と違背するから、必ず失敗を免れぬ。

(三)支那国民は世界無比の妥協性をもつて居る。個人としても国体としても、よくその環境と妥協して、万事極端に走らぬ。支那は天災の多い土地であるが、国民はよく之に順応して、甚だしき損害を受けることなく、禍災の裡に発達を継続して行く。されば過激思想が侵入して来ても、例の妥協性で骨抜き同様に終り、結局支那の社会の根本組織には、格別の影響を及ぼさぬ筈と思ふ。

 

以上が梁啓超の議論の核心である。この議論はその標榜とは反対に、可なり歴史上の事実を無視し、又は曲解した妄断と認めねばならぬ。左に簡単に之が批判を述べる。

 

日本人やったらこないウソ八百並べて活字にするやなんてこと寝覚めが悪いんで普通はせえへんが、中国人は今も昔も息をつくよにウソ吐ける民族ちゅうことやな。強いて当たっとるとこを挙げれば、「中国に共産主義を輸入しても必ず失敗する」てとこぐらいか。「世界無比の妥協性」もそうやが、それは国家単位に時折見られる属性でしかあらへん。それにや、中共ソ連軍との衝突があっても珍宝島に執着し、インドとの国境についても妥協せえへんし、尖閣諸島強奪を諦める気配なんざ微塵も感じれんがな。そもそもそないに妥協性があるんやったら九段線を引っ込めれるやろがアホ。

 

次回は先生によるこの典型的な中国人梁啓超の批判から始める。(つづく)