E-BOMBERのアホアホブログ

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わしの鉄道事情大研究・井原鉄道(1)

もしかやけども、岡山の矢掛町井原市の交通事情は時の政治に翻弄されることが多かったんやないかて思うねんな。それは、山陽地方の現代の大動脈の山陽本線山陽新幹線・山陽自動車道が、山陽道西国街道)とはえらい違う道筋なってしもたあるからや。

 

古代から中世初期にかけてのこの地では学者としても名高い右相国・吉備真備を出した吉備氏の繁栄があったけども、藤原氏らの勃興で吉備氏は凋落してまう。後から振り返ればこれがケチのつき始めなんかもしれんけども、そんでも吉備地方は西国街道の通ることによる恩恵を長らく受け続けることになる。

 

江戸期に入ると福島正則広島城無断改修で除封され、この際に広島藩領の一部を割いて福山藩が立藩されることになる。この福山は広島と二段構えで毛利氏に備えるための要害として幕府に重視され、藩政は決して楽やなかったみたいやけども、山陽道の宿場町神辺を凌ぐ勢いで成長することなる。ほんでから、天領の倉敷は商業都市として発展して、同じく宿場町の川辺を圧倒してまう。幕末近くになると浅口に教派神道金光教が興り、1891年山陽鉄道倉敷—笠岡開業時に、金神仮駅(現・金光駅)も開設されてんやんけ。

 

こないして、本来やったら山陽本線が通ってもおかしなかった吉備は大いにワリを食うことになってしもたんやろな。歴史に仮定が許されるとして、少なくとも福島正則の改易があらへんかったら、吉備線井原線山陽線になっとったかもしれん。

 

ほんでもまあ、井原鉄道沿線はさすがに山陽道が通るだけあって、街道沿いには宅地が結構並んだあるし、井原・矢掛には歴史を感じさせる街並みもあるみたいや。せやから笠岡から井笠鉄道が敷設されてんやろし、国鉄も倉敷—清音—矢掛を結ぶ自動車線を開設しとったぐらいや。国鉄はさらに吉備線を延長する形で「井原線」を計画しとって、66年に起工式が執り行われてんな。翌年には鉄建公団に廃線跡地を売り渡す目的もあって井笠鉄道矢掛線・神辺線が廃止され、71年には本線(笠岡-井原)も廃線なって、井笠鉄道は鉄道事業から完全撤退することなった。同時に、矢掛と井原から一時的に鉄路が消滅することに決まった。

 

ところが、昭和の歴史までもが矢掛と井原を翻弄することになるけども、それは次回に回すことにする。(つづく)