E-BOMBERのアホアホブログ

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わしの鉄道事情大研究・智頭急行(2)

智頭急行智頭線の前身とでも言うべき「国鉄智頭線」が凍結されたんは、やっぱし国鉄の赤字転落が最大の原因やった。しかも、当初の計画では建造費が90億円程度と見積もられとったんが、山陽線姫新線の線路容量の問題から立体交差化を要するとされるなど計画変更され、国鉄時代末期には300億円にまで膨らんでしもた。

 

智頭線の建設が進捗する間にも国鉄の赤字は膨らみ続け、しまいには国鉄再建法(昭和55年12月27日法律第111号)が制定されるに至る。同法によると、1日当たりの輸送密度が4000人を下回る路線は廃止・バス転換すべきとされ、智頭線も僅かにその値を下回るて見積もられ、工事は凍結されてしもた。

 

智頭線と同時に凍結されたAB線(地方開発線及び地方幹線)の顔触れを見たら、確かに廃止やむなしの路線が大半や思う。せやけど、前回も書いた通り、智頭線京阪神鳥取・倉吉を高速で連絡さすために不可欠の路線や。智頭線の開通が大幅に遅れたことで、鳥取の発展がおもっくそ阻害されたんやて思うど。しかも当時のメディアの大半は智頭線宮福線(現・京都丹後鉄道宮福線)など現在も幹線として機能してる路線とその他のAB線とを十把一絡げにして論じるなど、およそ鉄道のことを語るに価せんアホさ加減やった。いや、それは今でも変わらん思う。つまり、智頭線の開業を遅らすのんに、当時のマスコミも片棒を担いどったちゅう訳や。せやさかい、メディアによる公共交通機関の報道は絶対にウノミにしたらあかんねん。

 

この国鉄再建法は、特定地方交通線第三セクターとして存続さすことも可能としとって、これはまあ政治屋の都合で拵えた赤字線の処理の地方や民間への丸投げとも言えんことはナイ。本来やったら国鉄・JRに残すべきやった智頭線宮福線・伊勢線まで切り離してしもてんからな。バッジつけた連中の仕事はかくも雑なんかと、当時まだ中坊のわしも呆れた記憶がある。

 

ともかく、智頭線は何とか開業さそうちゅうことで、当時の鳥取県知事の西尾邑次は、県内の特定地方交通線(倉吉線・若桜線(現・若桜鉄道として存続))の処理をしつつ、工事進捗率90%で凍結されてた智頭線の建設再開に向けて取り組むことにした。国鉄智頭線建設促進期成同盟会が専門機関に委託した輸送人員調査の結果では、「ローカル輸送のみでは赤字、国鉄と直通の特急列車を含めれば黒字」と出た。鳥取県はそこで得られた通過旅客数1,652 人/日を前提として国鉄運輸省(当時)と交渉してんけど、ウィキによると、国鉄側はそれほどの乗客はあれへんやろと懐疑的やったそうや。ところが開通したら、この倍に達する輸送実績を残してるねんさかい、当時の国鉄には鉄道運営能力があれへんかったことが分かるし、現在の国交省かてまあそんなモンやろうよ。

 

西尾知事は85年に兵庫・岡山両県知事との協議を行い、三セクでの運営がここで事実上決まった。翌86年には「智頭急行株式会社」が設立され、さらに翌年の87年には工事が再開された。この段階で建設費は413億円にまで増えた。事再開後の89年、単に国鉄時代のまんまの計画では、将来誕生するやろう高速バスに勝てんちゅうことで、智頭線の最高速度引き上げが検討されることになった。

 

電車特急を走らすには因美線鳥取―智頭間を電化するなどの工事が必要で、当時のJR西にはそれだけの体力があれへんちゅうことで電化は見送られた。そこで最終的には、智頭線区間のみ気動車特急による130km/hの高速運転を行うことに決定した。これには、JR東海キハ85系気動車特急「ひだ」「南紀」などの実績が考慮されたんやないかて想像される。工事費はさらに21億円余り増えたけども、それが現在の智頭急行の高速運転を可能にしたある。

 

こないした紆余曲折を経て、智頭急行智頭線は1994年12月3日に遅すぎる開業の日ィを迎えることと相成った。歴史に仮定は許されんと言われるが、もしか智頭線播但線よりも先に開業さしてれば、鳥取の経済がもっと発展しとって、人口最少の県にならんかったかもしれん。日本のお粗末な鉄道行政が鳥取を凋落さした訳やけども、これに類する事象は日本全国で見られる思うさかい、今後もこないしたことを書き連ねることになるやろうな。

 

次回は智頭線のさらなる利便性向上について考えてみたい。(つづく)