E-BOMBERのアホアホブログ

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わしの鉄道事情大研究・智頭急行(1)

この智頭急行は、これからの地方高速交通をどないするかのモデルケースになるものと考えれるんで、その計画・着工・開業までの経緯について最初に触れることにする。

 

ウィキによれば、「国鉄智頭線」の建設運動は1892年に始まるが、同年制定の鉄道敷設法(明治25年6月21日法律第4号)の「山陰及山陽連絡線」の部に「兵庫県下姫路近傍ヨリ鳥取県鳥取ニ至ル鉄道又ハ岡山県下岡山ヨリ津山ヲ経テ鳥取県下米子及境ニ至ル鉄道若ハ岡山県下倉敷又ハ玉島ヨリ鳥取県下境ニ至ル鉄道」とあり、同法によって「姫路―鳥取―境」のルートが選定され、智頭線建設の機運が高まった。せやけど、実際の建設は和田山から北の区間から始められ、一転して播但線の建設を促すことになり、智頭線は構想倒れになるかに見えた。

 

ところで、京阪神と山陰を結ぶ鉄道路線としては他に山陰線・福知山線播但線姫新線因美線があるけども、山陰線は豊岡を経由するんで鳥取まではかなり遠回りになる。山陽新幹線岡山開業後に伯備線が米子・松江方面への連絡線として注目されるようなったけども、鳥取・倉吉方面への利便性はさして向上せんまま取り残される恰好になった。やっぱし智頭線は必要な路線やった訳や。

 

せやけど、智頭線の必要性は鉄道行政の担当者らによってそれなりに語られとったようで、改正鉄道敷設法(大正11年4月11日法律第37号)でも、その第85号に「兵庫県上郡ヨリ佐用ヲ経テ鳥取県智頭ニ至ル鉄道」が予定線として書き込まれたあった。1934年(昭和9年)には兵庫・岡山・鳥取の18市町村により「智頭・佐用線鉄道期成会」が結成され、国に対して早期建設を訴えたけども、第二次大戦で運動は中絶した。戦後の50年に改めて「智頭・上郡線鉄道敷設期成同盟会」が発足して運動が再開し、高度成長期の61年に晴れて予定線から調査線に格上げされ、翌62年にさらに工事線に格上げとなった。64年に国鉄は鉄建公団に対して「工事実施計画の指示」を出し、AB線(地方開発線及び地方幹線)として建設されることになった。66年に「智頭線上郡・智頭間工事実施計画」が運輸大臣の認可を得られ、やっと「国鉄智頭線」が現実のものになるんやなと誰の目にも見えた。

 

ところがこの間、国鉄は単年度赤字を計上し、東海道新幹線の建造費高騰がそれを招いたとのあらぬ非難を受けて63年に十河信二国鉄総裁(第四代)が詰め腹を切らされるなど、国鉄をめぐる環境が次第に悪化するようなった。これで国民(ちゅうかメディア)の批判の目ェは次第にいわゆる特定地方交通線智頭線その他建造中の路線にも向かうようなった。

 

次回は智頭線の凍結と第三セクターとしての再出発について書くことにする。(つづく)