E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

(集団的自衛権)国の存亡と法手続きの適否のどちらが大切か

 第二次安倍内閣集団的自衛権の解釈拡大を閣議決定したことへの賛否両論が喧しいが、世間の人々の反応は、集団的自衛権の是非だけやなしに、憲法にまつわる問題を国会を通さず政府内で決めてしもたことへの批判が多いみたいや。物事を強引に決めたがる大阪市の橋下コスプレ市長みたいやとの評言も聞こえるが、確かにその意見は筋が通ってて慶弔いや傾聴に値するかのようにも聞こえる(マイクロソフトIMEは相変わらずアホ変換しよるんでホンマ困る)。

 せやけど、どっかが攻めて来るて分かってて自衛隊とかがそれに対処するんを法律違反や言うて躊躇しとって敵にやられたらそれこそ本末転倒やがな。有事法制の重要さは平和ボケした奴らには理解でけんらしい。それともこいつらを「法匪」とでも言うべきか?大体やね(竹村調)、今の憲法が変やからこないな不毛な議論せんならんねんやんけアホ。

 安倍内閣集団的自衛権問題を見せられるにつけ、70年代の終わり頃の栗栖弘臣統合幕僚会議議長の「超法規的」発言を思い出さざるを得ん。栗栖統幕議長は、敵軍がわが国の領域に迫った時には、現行の自衛隊法では対処でけんから、「超法規的行動もあり得る」て発言して有事法制の必要性を説いたんである。

 せやけど、当時のマスコミはこの「栗栖発言」に対して一斉に噛み付いた。政府内からは「シビリアンコントロール文民統制)に反する行為」との批判もあったが、今まさに日本国土を侵そうとしている敵性勢力に対して文民統制もクソもあらへんのが戦争ちゅうモンやないけ。それとも何け?全ての防衛行動の許可をいちいち官邸に上げて裁可を得られんかったら小銃の一発もぶっ放せんような軍隊が侵略者を撃退でけるとでも本気で思とるんけ?そんなん敗北主義者の言説やろう。どこぞの国からの侵略戦争に負けて言論の自由を奪われ、アメーバに書きたいこと書けんようになることだけはわしゃ死んでも御免やぞ。

 見方を変えたら、安倍首相は自衛権を巡って統合幕僚長に代わって超法規的行動をしているかのようである。否むしろ、明治憲法の時代とちごて、新憲法の今では統帥権も編制権も軍令部や軍部大臣やなしに内閣総理大臣(ただ、統合幕僚長には総理への統帥事項の「帷幄上奏権」があるやに思える)にあんねんさかい、「超法規的行動」の主体は総理にあるとの解釈が成り立つ。総理が超法規的に動いて範を示せば、自衛官も安心して超法規的行動がでけるちゅうこっちゃな。実はこれこそ文民統制の健全な姿の見本なんかもしれんのう。少なくとも軍部の暴走を招来した「統帥権独立」よりかはマシやろうが。

 そもそも、自衛隊の最高責任者が国の法的な防衛態勢を憂えて有事法制の必要性を説くことを文民統制に反するやなんて揚げ足取りの発言でしかあらへんし、幹部自衛官に「貝になれ」と言うに等しい。栗栖の発言は言わば「建言」「提案」の類で、これを文民統制違反とか言うのんは当時の日本人がそんだけ平和ボケさらしとったことを示すに過ぎん。極端にいうたら幕僚による作戦についての発言すら躊躇してまうことにつながって、ますます戦えんようになる危険すら出てくるわいな。

 むしろ、憲法第九条第二項の空文化がより進行することをわしは歓迎したい。平和が世界各国の戦争放棄によって達成される理論は高度に理想化されたモデルでしか成立せず、軍事力の均衡によって保たれてんのが現実である。戦争は政治の一部やけど、その政治は理想やなしに現実の世界の事なんである。その、現実の世界に生きることを拒否する平和主義者に限って、日本人の文民が乗った第三国の船舶が敵の攻撃を受けて沈没したときに国や自衛隊をギャンギャンいうて批判するに決まったあるねんやんけ。

 それにやな、わが国の憲法にはたいていの国のそれに書いたある「国家緊急権」の記述があらへんのも問題や思う。国家緊急権ちゅうのんは、有事に際して国の秩序が混乱し、または混乱する虞がある場合、総理が憲法の停止を宣言し、んでから非常措置を円滑に施せるように総理の権限を強化でけるとする国家の権利で、明治憲法下の緊急勅令がほぼこれに相当する。時限運用と定期的な議会による承認が不可欠やとは思うが、これがなかったら、落とされた橋を急いで架けなおしたり病院を建てたりとかがでけんようになるから困るんは国民の方やでー。

 兎にも角にも、国の存亡と法的な手続きの適否とを天秤にかけることだけ時間のムダやろう。わしが仮に侵略軍と対峙する軍隊(自衛隊)の指揮官やったとしたら、超法規的行動によって戦後処罰されることを覚悟して反撃の火蓋を切るど。それぐらいでけん奴が軍人(自衛官)になるんは間違いやろう思うがでやろか?