E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

「新しいみんなの公民」もあかんかった(35)

 中学の教科書で同和に関する記述を掲載することに、わしは反対である。学問の自由に関わる問題なんで議論は慎重に行う必要があるんやけども、未熟な頭脳にこのような知識を入れることによる弊害をちゃんと計算に入れとるんかちゅうこっちゃ。




 いわゆる差別落書きは、小中高生がその主な原因やと見られることからなおさらそない思われるんやがな。要するに、まだ成熟しとらんノーミソに余計なこと書き込んだら、それがイジメとかに使われる危険性があるちゅうことを言いたいねんがな。




 わしは過去に差別的な文章を投稿しよった佐野眞一とそれをそのまま載しくさった「週刊朝寝」をブログで批判した時にも書いたが、差別はその存在を忘れしめることによって解消すべきモンであって、それを学校でほじくり返すようなマネをしたらあかん。敢えて率直に言うたら、日教組の連中はこの同和問題を組合活動に利用しとるだけやないかとすら思うし、解同に至っては、その構成員の減少による影響力の低下を恐れて、折角「解放」された人を組織に呼び戻そうとしとるありさまやさかい、こんなん論外や。




 わしには何も同和を学問の対象にすなとまで言う意図は毛頭あらへん。ただ、アホなドタマにいらんこと刷り込んだらロクなことにならんちゅうことを警告したいだけである。こういう類のことは、高等教育以上で研究すべきことやないかて思うんである。でも、今や大学の大衆化が進むと同時に現役学生と大卒の白痴化は進行性の病と化しとるんで、学部生の授業に採用することもやめといた方がエエんではとさえ思う。卒論のテーマにするんも適当とは思えんから、教えるとしたら修士以上やな。但し、多くの私立大大学院ではエスカレーター式に院に進学さしとるが、「凡河内躬恒」を「ぼんかわち」て読むような院生ではあかんので、院入試の厳正化が条件になる。出来たら人物考査もして、反社会的な言動をする虞のある学生を撥ねることも考えた方がエエやろう。わしなんか真っ先に撥ねられそうやが。




 学問の目的が人々を幸福にすることにあることは論を俟たん。せやさかい、学問の自由があるからちゅうて、ごく一部の人がいわれのあらへん苦痛を味わう可能性のある学問分野を無規範に垂れ流すような姿勢は絶対に容認でけん。それが守れん教科書の執筆者はしばかれて当然なんと違うのか?(つづく)