E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

「新しいみんなの公民」もあかんかった(31)

 この教科書では普通選挙を「納税の有無や納税額に関わらず」と書いてあるが、わしはこれに「カシコであるかアホであるかに関わらず」も加えることを主張したい。これは民主主義を進化さすことも退化さすこともでける諸刃の剣ではあるけれども、普通選挙は人気投票に堕落する危険性があることを考えたら、現在の普選に問題なしとは到底言えんやろう。有権者の選別をどないやって行うかを慎重に決める必要があるが、議会制度を続ける限りいずれ問題になることは多分間違いナイやろう。




 最高裁裁判官の国民審査が形骸化しとることは多くの人が認めるとこやのに、それについての言及が一言もあらへんのもけしからんの。判事の善し悪しを判断するには彼が過去に作った判例を見るしかあらへんが、一体に、その半ケツいや判決の妥当性を判断するには一定以上の法律についてのリテラシーが必要やちゅうことには大方の了承が得られるやろう。そんな高度な技術の要ることを一般国民に丸投げするとは司法も無責任やのう。司法についての一定以上の見識を得るには大学の一般教養課程で「憲法学」や「法学」とかを履修した程度では全然あかんのんで、この審査をちゃんと行える国民の数は相当絞られるはずやがな。選挙権もそうやが、これを一種の国家資格にしてもエエぐらいやろう。




 それに、わしら一般国民には、国や地方の議員を選挙する権利は認められとるけど、公務員を直接罷免する手段はあらへん。こんなんでは役人天国なるん当たり前やがな。公務員が何ぞやらかした場合、議会(国家公務員の場合は国会)の承認を得てからそいつを住民投票(国家公務員の場合は国民投票)でリコールでけるような制度が欲しい。でなかったら、憲法15条1項は未来永劫空文のまんまやぞ。




 「投票率が右肩下がりになっとるのは、国民が政治に対してシラけてしもてるから」の一文も書けん程に無能なんかこの教科書の執筆者わい?「どうせ誰がなっても一緒や」ちゅう国民の無力感を払拭する手段を考え出す力を養うために公民科はあんねんやろうが。その問題点をバーンと示せんでどないすんじゃいアホ。




 まず、教科書には何でも「生徒に自ら考えさせ」ようとする姿勢を改めさす必要を感じる。司馬遼太郎坂の上の雲」で、秋山真之が新聞読んでると兄の好古がそれを取り上げて破いてまうシーンがあるが、好古に言わせれば「自分の考えもないうちに他人の考えを知るのは有害無益」やそうや。でも、人がどないやって己自身で考えれる人物になるんかのプロセスを考えたら、それはちょっとちゃうんちゃうけてツッコミたなる。確かに真之は自分で物事をちゃんと考えれるようなったから石炭投棄や敵前回頭など奇想天外な戦法を編み出せる大戦術家になれたんやが、研究者は、まず自分の頭で考えてもどないもならん場合に、他人の書いた論文を一本読む。ほんで改めて、自分やったらどないすんのんかを考えてみて、納得が行くまでそれを繰り返す。論文読み漁るだけではもちろんいかんが、ほとんどの人間は入力があればこそ出力がでける訳なんで、他人の考えを知ることは決して百害あって一利なしなこっちゃナイ。むしろ、模範解答を堂々と示した方が今後の参考となる場合が多かろう。せやさかい、「まず自分で考えてみてから新聞を読め」が一番エエんやろうが、「お前やったらどないすんねん?」だけでもかめへんのやないのけ?ましてや、思考の土台(知識量など)もまだでけてへん中学生の思考には限界がある。彼らをバカにするような姿勢の教科書もあかんが、彼らを過大評価するような教材も頂けない。(つづく)