E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

「新しい日本の歴史」はやっぱしあかんかった(55)

 「統帥権の独立」ちゅう文言を教科書に載すんやったら、統帥権て何なんかの記述が要るやろう。せやけど、それをちゃんと説明しよう思たら、戦争の本質を論じる必要があるやろう。




 現在の日本では、軍隊(自衛隊)の最高指揮官は内閣総理大臣であり、しかも内閣総理大臣憲法文民でなければならないとされている。陸士卒の防衛庁長官(当時)が問題になったことがあったが、それは非文民が閣僚におったら、内閣官房の政策のすり合わせなどを通じで、内閣の施策に非文民の意思が反映されるおそれがあり、それでは純然たる文民統制シビリアンコントロールの訳語)が保てんという訳なんやろうかと想像される。




 しかし、当時の日本では旧憲法に内閣の規定すらあらへんかって、参謀本部と軍令部は天皇直属やったさかい、文民統制とは違うかった。ほんでも、日露戦争当時の日本では、参謀本部が政府にロシア領サハリンの占領を具申して容れられたりと、統帥部が政府と一体となって動くことがあった。ちゅうか、これが多くの国で見られる政治と軍事の関係やけどな。




 一方で、米国では軍事は政治の一部ではあるが、軍部は政治に容喙してはならず、また政治も軍部を利用してはならないとの立場を取っている。この考えは我が国の新憲法にも反映されてる通りやな。




 ただ、政治と軍事の関係についてはまだ議論が煮詰まってるとは言い難いモノがある。クラウゼヴィッツの「戦争論」でも読んで研究しやんとあかんのかも分からんが、その本文の中の「戦争とは単に政治行動であるのみならず、まったく政治の道具であり、政治的諸関係の継続であり、他の手段をもってする政治の実行である」(「戦争論」クラウゼヴィツ・淡徳三郎訳)の解釈が正に上のように分かれとんねんさかい、わしらシロートさんではどうしょうもないんかもしれんの。(つづく)