E-BOMBERのアホアホブログ

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「新しい日本の歴史」はやっぱしあかんかった(46)

 この教科書読んでるだけやったら「大正デモクラシー」は結構エエ政治しとってんなと錯覚してまう生徒が続出してまいそうなんで、相当量の補足が必要やと思う。




 大正政変で倒れた第3次桂内閣の後を受けて成立した第1次山本内閣では、政権を連続してひっくりこかした原因の軍部大臣現役制を廃止し、その補任範囲を予備役などにまで広げた。これには陸海軍の反発は相当なものがあって、このおかげで同内閣で陸相を務めてた木越安綱・楠瀬幸彦は中将でクビチョンパされてしもた。




 しかもこの政権時に、海軍軍部と産業界との癒着から起こったシーメンス・ヴィッカース疑獄事件が発覚し、内閣はあっさりと倒されてしもた。海軍大将山本権兵衛首相と同斎藤実海相はこの事件のペナルティとして予備役に編入され、二人とも暫し表舞台から姿を消す。




 山本内閣瓦解後、「十六代将軍」徳川家達に組閣の大命が下るが、明治維新以来政府に恨みを持つ徳川一門の反対で沙汰止みになる。今度は清浦奎吾にお鉢が回ってくるが、海相候補加藤友三郎・第一艦隊司令長官の新艦艇建造計画復活を希望したのを清浦が拒否したんで加藤は入閣を拒否した。清浦が前内閣ん時に軍部大臣現役制廃止に反対した手前予備役を海相に据える訳に行かんようなって、徳川内閣に続いて清浦超然内閣も「鰻香内閣」に帰した。これには貴族院院内会派「研究会」と「茶話会」の対立表面化のおまけがついて、後の第2次憲政擁護運動で茶話会による清浦超然内閣と研究会攻撃につながって行くんである。派閥抗争は大正の昔も平成の今も変わることなく醜悪である。




 次の第2次大隈内閣は中華民国北京政府に悪評高い「対華21ヶ条」を突きつけ、第2次西園寺内閣以来の陸軍の懸案事項の2個師団増設を衆議院最大会派の政友会に反対されたんで衆議院を解散した。こん時、山県人脈の大浦兼武内相が「こら、与党に入れへんかったらしばくぞワーレー」ちゅう選挙干渉さらしよって、結局与党同志会・中正会が勝利してんがな。




 この選挙干渉ちゅう民主主義に反する行為は、大正では政党内閣期に一番えげつなかった。政権交代(当時はまだ「憲政の常道」が確立してへんかったが)の度毎に、与党となった政党内閣が敵対政党が任じた知事・警察官僚を一斉にクビチョンパして、自党を支持する内務官僚をこれに代えて任用する人事が横行しとったからであって、ここに健全な民主主義の萌芽なんぞ見出し難い。これのどこが「大正デモクラシー」やちゅうねんドアホ。(つづく)