E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

「新しい日本の歴史」はやっぱしあかんかった(45)

 やはりわしでも今夜は○神よりも最終予選の方が気になったが、そんでもこれは最後まで書きたい思うんで今日(11日)も書く。




 第2次西園寺内閣が倒れたんは、伊藤の暗殺で山県狂介有朋が出しゃばるようなって、陸軍2個師団増設せよと内閣に圧力かけてきよったんが事の発端やな。それを西園寺に拒否されると、上原勇作陸相が辞表を提出して、陸軍が大臣を出さんかったんで倒れてんな。ただ、この事情を理解しようとする場合、どないしたかて「軍部大臣現役武官制」に言及せんとあかん。「中学レベルでは難し過ぎる」なんてしょうもないことにこだわっとったら、正確な歴史を教えんのも難しなるがな。




 海軍ではその高等教育機関である海軍大学校を出やんでも大将・中将への道は開けてるが、陸軍では陸軍大学校出てへん「無天組」では平時ではほぼムリやった。せやさかい、中将以上が補任資格である陸軍大臣のポストは陸大出て「天保銭(参謀適格章)」を持ってる人間でほぼ占められててん。んで、天保銭組の人事権は政府(陸軍省)やなしに参謀本部が握ってんねん。せやから、政府が誰ぞ現役の陸軍大中将連れて来て「あんた陸相な」言うても、参謀本部がそいつに「本日を以て予備役(後備役)に編入す」の通告一本出しただけでその内閣はひっくりこける。第2次西園寺内閣もこれでやられたが、桂との政権たらい回しの密約のツケが意外な形で来たとも言えようか。




 この頃山県は桂との関係が悪化しとって、松方や山本権兵衛らに組閣を依頼してんけど断られ、しゃあなしに桂に組閣さした。桂は反立憲政友会勢力を糾合して(立憲同志会)自らその総裁となろうとしたが、山県らの賛同が得られず孤立した。




 しかも、国民からは西園寺失脚を桂の謀略と見られ、しまいには憲政擁護運動にまで発展してしもた。尾崎咢堂の内閣不信任案趣旨説明を受けて桂が帝国議会停会を命じて、これを受けて群衆が議事堂を取り囲んで桂を非難してんな。桂は大正天皇詔書を取り付けて政友会に呈示し、彼らの協力を取り付けようとしたが、協力は党議で否決され、しゃあなしに桂が停会延期を命じたら群衆が激昂して東京市中大混乱に陥ってしもた。結局桂は大岡育造衆院議長の説得を受け入れて総辞職を決意し、第3次桂内閣は空中分解してしもた。これが大正政変やな。




 この問題多い制度である軍部大臣現役制は、明治中期に政党の影響力を断つ目的で山県内閣が制定しよってんな。この制度は第一次山本権兵衛内閣時に廃止されるが、2・26事件のドサクサ紛れに(ちゅうか、皇道派荒木貞夫・真崎甚三郎らの陸相就任を封じる名目で)また復活してしもて、日本敗戦までその悪弊を晒し続けることになんねんがな。(つづく)