E-BOMBERのアホアホブログ

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「新しい日本の歴史」はやっぱしあかんかった(38)

 20世紀前半の日本の歴史についてあれこれ言うのんはめっちゃエネルギーを使う。せやけど、ここを乗り切らんかったら最後まで行かんので、この胸突き八丁をどうにか乗り切りたい思う。




 ロシア駐在武官田中義一(オラガビール)は、ロシアの陸軍士官学校を視察して、その乱脈ぶりに呆れた。日本の陸士は身分に関わりなしに成績によって入学が決められとったんだが、ロシアではせやなしに、貴族の身分やったらアホでも入れるは、しょうもない理由で外泊でけるは、こんなんが陸軍士官なれるんやったら日本は楽勝やと感じたらしい。せやけど、数だけはやたら多いんで、開戦が遅れるとその数に手こずることになるさかい、開戦は早い目にした方がエエやろうとも思たらしい。




 ところが、明治天皇以下政府要路者の開戦の決断はなかなかつかず、「豈朕ガ志ナラムヤ」と開戦を決意された時には、既に満州には露軍が集結しており、田中の予言通り日本陸軍はその数に手こずることになった。後少しでも遅れとったら、日本は勝てんかったかもしれん。




 日英同盟は、ロシア第2・第3太平洋艦隊(バルチック艦隊;第3太平洋艦隊はスエズ運河経由)の日本来航の大きな障害にもなって、敵艦隊は船底に蛎殻ようさんつけたままやったこともあって壊滅させられた。それに、この同盟を有効に活用して開戦を防ぐ手ェもあったやろし、小村の功績は元寇を撃退した北条時宗に勝るとも劣らんやろなあ。




 それにしても、日露戦役には陸軍に大山巌満州軍総司令官に児玉源太郎・同総参謀長がおり、海軍に東郷平八郎連合艦隊兼第一艦隊司令長官とその先任参謀秋山真之など輝かしい軍功を挙げた人物がおんねんがな。せやのに彼らを差し置いて、旅順要塞への拙攻で数多くの味方将兵を死に追いやった乃木文蔵なんぞの写真を載すとはけしからんにも程があろう。乃木に才能があるとすれば「万人斉仰爾霊山」で結ばれる七絶など漢詩の分野だけと違うのか。学習院院長なってからも、その時代錯誤的な生徒指導法で批判されとるし、長閥でなかったら大隊長で馘首やったんと違うけ。




 ただ、日露戦争の勝利が1945年の日本滅亡の序曲にもなったことは皮肉としか言いようがあらへんな。これ以降、日本軍には「勝った戦術こそ正しい戦術である」ちゅう先例主義がはびこるようなって、しかも戦術(tactics)よりももっと重要であるはずの戦略(strategy)を等閑視する戦術主義に陥ってしもた。それは、軍隊の官僚化に陸海軍の反目、軍政と軍令の協調の欠如、政治と軍事の混乱などによって齎された悲劇やった。(つづく)