E-BOMBERのアホアホブログ

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「新しい日本の歴史」はやっぱしあかんかった(30)

 近現代史の批判は近世史以前のそれよりも難しい。せやけど、歴史は近現代史が肝やねんから、心してこの問題教科書の批判を続けたい思う。




 幕末の閣臣で維新後に刑死した小栗上野介忠順は「江戸幕府は『何とかなるだろう』と言い合っているうちに倒れた」と語ったそうや。実際、幕府は第一次長州征伐で大勝したし、「何とかなる」どころか存続の態勢は十分整っとった。ところが、公武合体の破綻などもあって幕閣の方針が定まらず、幕府の理解者であった孝明天皇ですら攘夷決行を迫るなど幕政を大いに擾乱した。




 第二次長州征伐の最中に家茂が大坂城で病没し、歴代将軍の中で唯一「人材論」で選抜された慶喜やったが、過去に「将軍後見職・一橋刑部卿」として面が割れてるだけあって神秘性・カリスマ性に欠け、将軍職を継いでから後も尊皇倒幕派とかから「一橋」呼ばわりされる有様やったそうやんけ。幕府は最早武士らの精神的支柱でのうなってしもたさかい倒れたとも言えようか。




 幕府の存続は不可能と判断した慶喜大政奉還を決意する。この判断は戦後まで「政権をあっさりと放り出した」と批判の対象になってんけど、後の研究の成果で、慶喜には「いきなり大政を奉還されても、どうせ朝廷や公卿どもには何もでけんやろう」ちゅう計算の下でのこっちゃったらしい。実際、いざ大政を奉還されて公卿らはえらい慌てふためいたらしいからのう。こないした生々しい事情を説明せんで、幕府の最終末期を理解するんは難しいのと違うかな。




 五箇条の御誓文に「広く会議を興し万機公論に決すべし」てあるが、聞くとこではこれにはたたき台があって、そこでは「列侯会議を興し云々」やったらしい。実務能力のあらへん朝廷は、慶喜をこの列侯会議議長に任じるんやないかとも考えたんやろう。結局また「政治は関東に丸投げ」の体制に戻るてな。せやから、王政復古の大号令慶喜痛恨の計算違いやったやろう。しかも慶喜自身おかんが有栖川宮家出で水戸学の影響を受けた尊皇家やったことも影響して、徳川三百年は終焉を迎えたことになろうか。




 全然関係ないが、「列侯会議」と打ったら「裂肛会議」ちゅうのが変換候補に出てきてギョッとした。何で切れ痔の患者が集まって会議しやんとあかんねん。めっちゃ痛そうで見てられんで。(つづく)