E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

「新しい日本の歴史」はやっぱしあかんかった(18)

 歴史の教科書批判は慎重にしやんと、わし自身がアホの拡大再生産に荷担してまうことを恐れつつ、18回目の連載記事を書くことにする。




 「農業の発達」の項目の新田開発を見てて思い出したんが「堺」である。この教科書にも堺のことがよう出てくるが、わしの狭い経験からではあるが、未だに堺を港町であると誤解してる人が多いのと違うかと懸念するのである。




 過去、大和川は現在の大阪府に入ると北に流れを変えて幾筋もの分流になってから淀川と合流しとってんけど、この分流が天井川なって度々水害起こしとって、河内などで「川違え」を求める運動が起こった。




 これを受けて、幕府は堺附近の住民の反対運動を抑えて、18C初頭に、大和川の川筋を、現在の大阪市堺市の境目に付け替えた。これにより水害は収まり、しかも鴻池新田とかの新田開発が可能になってんけど、堺の港が大和川が運搬した土砂で埋まってしもて、港湾都市としての機能を大きく損なうことなってんな。




 浅野長矩江戸城松の大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ「元禄赤穂事件」の背景には、綱吉が生母桂昌院従一位に叙せられるための朝廷への運動があってんな。吉良も浅野もこれに振り回された結果、刃傷沙汰にまで発展してんな。とんだ親孝行やった訳やな。これによっても、綱吉は暗君と断定でける。




 藩校と寺子屋に行数を多く取ってることは評価でけるものの、これが維新成業の原動力になったことと、維新後の産業革命に役立ったちゅう肝心なとこが抜けとるんはあかん。




 江戸時代を学ぶことによって、教育は国家百年の計であることがよう分かる。それやのに、教科書のデキがこれでは、百年後の日本はどこぞの植民地になっとっても全然おかしないな。(つづく)