E-BOMBERのアホアホブログ

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「新しい日本の歴史」はやっぱしあかんかった(13)

 このシリーズも既に13回目を数える。一体どんだけ素人にツッコまれる教科書やねんこれは。




 「宣教師の見た日本」なるコラムを、「布教の成功を予感したのではないか」と締めくくっとるのはどないかて思うで。日本は世界を代表するキリスト教布教失敗地域やちゅうことは誰でも知っとるこっちゃないかアホ。まあ、ある大阪人の「今日は天○教のクリスマスパーティーあるんで帰るわ」て発言があるぐらいやから、ある意味布教に成功したんかもしれんが。ただ、クリスマスが定着したんは、我が国に冬至の年中行事があらへんかったことが理由やちゅう話もあるし、何れにせよ20世紀以降の話やろうと思われる。もちろん、キリスト教布教失敗の最大の理由は、秀吉のバテレン追放令に始まり、それに続く江戸幕府の徹底的な弾圧にあるんやが。




 前に挙げた、守護大名戦国大名との違いは、桶狭間の戦とその周辺だけで分かりやすい説明ができる。織田信長の父織田信秀は、守護大名斯波義統の守護代織田信友の奉行の一人に過ぎんかった。せやけど、戦国時代には守護大名は形骸化しとって、義統は信友の傀儡に過ぎず、信友にせよ信秀の威を借る狐でしかなかった。信秀の死後信友は義統を弑して信長の弟信行を擁するが信長に圧迫され、一族の信光に頼ろうとして却って信光に殺された。




 こないして尾張の実権を握った信長やったが、信秀以来の仇敵やった駿遠三を支配する今川義元の侵攻を受けるようになる。破竹の勢いで尾州に迫る今川軍やったが、田楽狭間で酒呑んで休息しとるとこを信長の急襲を受けて、義元は呆気なく討ち取られた。その結果、駿遠は織田家が切り取って我が物とし、今川家の人質やった松平元康は岡崎入城を果たして三河戦国大名に返り咲いた。つまり、戦国大名ちゅうのんは、切り取り次第で領国を増やすことがでけて、その興亡も幕府の与り知るところではあらへんちゅうとこが、守護大名と決定的に違うとこやな。これ以上に分かりやすい説明方法あるけ?




 信長が足利義昭を将軍に立ててから義昭を追放するまでの間に、どんだけオモロイ話があるんかて考えたら、記述があっさりしすぎとるんとちゃうけ?浅井・朝倉の抵抗、武田信玄の猛攻に苦戦する家康軍とか、この教科書は内戦を軽んじる傾向が強いみたいやな。(つづく)