E-BOMBERのアホアホブログ

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「新しい日本の歴史」はやっぱしあかんかった(6)

 電気屋のくせに日本史の教科書にツッコミ入れてるわしも大概やとは思うが、たかが一市井の電気屋なんぞにツッコミ入れられる教科書作っとる連中の方が問題は深刻やろう。




 和歌がわが国の主要な文化であることを認めるのに吝かではないが、漢詩に比べたらその完成度が低いことは蔽い隠せん真実やろう。残念ながら、三十一文字は五絶に如かずである。なぜなら、和歌は漢詩に比べてどないしたかて冗長なるねんさかいの。これは、古代中国語と日本語の構造の違いから来る宿命と諦めざるを得ん。ナンボ中国が嫌いやちゅうたかて、漢文を否定することは日本語そのものを否定することになるど。




 わしは「古事記」と「日本書紀」には距離を置く立場やけど、それは当然のこっちゃ。何でて、どっちゃも朝廷側の人間が編んでんさかい、朝廷に都合の悪い史実が書いたある訳あらへんがな。まあ、「古事記」には文学的な価値はあるやろし、「日本書紀」かて曲がりなりにもわが国最初の編年体史書であるこっちゃが、「二十四史」を編んだ中国とは比較にもならんわな。こないな史実にほっかむりして、日本をエエように見せようとするとはアホらしいにも程がある。ただ、「三国志」を著した陳寿諸葛亮に冷遇されとったさかい、諸葛亮はここでは貶められとるちゅうことも一応注意しとく。歴史学者とは仲良うしとけ。




 ここでまた、歴史用語の教育の不備を指摘しとかんとあかん。本来「正倉院」は固有名詞とちごて普通名詞であるちゅうことをしらんままに中学生活を終えることは不幸なこっちゃろう。でなかったら、何で「正倉院正倉」てまどろっこしい表現しやんといかんかの説明がつかんやろが。中学生ナメとったあかんぞ。




 左巻きの連中がこの教科書で神話を度々持ち出して日本の歴史教育を歪めとると批判しとるんも、まあ分からんではない。歴史は真実のみを書き連ねんと後世の反省につながらんやろうからの。ただ、中学の国語にはまだ古文があらへんし、神話を歴史以外の教科書に載せる機会を見出し難いこともまた事実である。神話は歴史とは一線を画すべき存在やけど、歴史の教科書がそれを載すことを否定しては、中学生が神話に触れる機会を逸することになる。また批判の鋭鋒が鈍ってしもたが、己の過ちを素直に認めることすらでけん奴に教科書を批判する資格はあらへんと思い直して、この連載を続けることにする。(つづく)