E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

「樅の木は残ったが、この間腐って倒れた?」

 山本周五郎作「樅の木は残った」をテレビでやっとった。


筒井康隆「乱調文学大辞典」によると、


やまもと-しゅうごろう【山本周五郎山本長五郎の子孫。


やそうや。んで、「山本長五郎」て誰やて聞いたら、


清水の次郎長


て知って大笑いしたがな(実際は、「山本周五郎商店」の勤め人やったんを、文藝春秋社が間違うたからやそうやないか)。


 そんだけやなしに、筒井さんは、「赤ひげ」「五弁の椿」など、テレビ・映画の脚本を数多く書いたて書いてるけど、聞くところによると、山本氏は連載の末尾に毎回「テレビ・映画化お断り」て書いとったらしいがな。「ぶらり新兵衛道場破り」をテレビで見た記憶あるけど、あんなんまさにテレビの脚本やないか。もっともあれは山本氏が冥土に引越されてからテレビ化されたこっちゃろうけどな。「山本周五郎アワー」やて?笑うがな。


 山本氏の時代小説の特徴は、時代小説でありながら、地ィの文もセリフも現代文であることらしい(確かに、今回のセリフも現代文やった)。時代モノの難しいとこは、地ィの文が現代文やのに、セリフが「さようしからばごもっともなんとござるかしかとぞんぜぬ」では、作品の緊密性が損われるちゅうことらしい(わしみたいに、地ィもセリフもベタベタの大阪弁やったら、ブログとしての緊密性も損われまいw)が、文学に疎いわしには何のこっちゃようわからん。地ィを「さようしからば」にしたら緊密性が保たれるちゅう単純なこっちゃあらへんやろ思うねんけどなあ。わしに文学は永久に理解でけんやろうが、文学の文章の緊密性は探ってみたいテーマではある。


 伊達(わしは「イタチ」と読む)騒動なるお家騒動は「伽羅(めいぼく)先代萩」でも採りあげられてるちゅうことをわしは今回初めて知った次第や。浄瑠璃とかはわしの守備範囲からは外れとるが、どういうわけか「山本周五郎全集」がうちにあるんで、ともかく、「樅の木」を読んでみるか。