E-BOMBERのアホアホブログ

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なぜに「統帥権」干犯問題というのか?

 NHK教育にチャネルを合わしたら、司馬遼太郎の86年当時の雑談をやっとった。そこで司馬氏は、「統帥権干犯問題」に見られる政治と軍事の混乱について語っておられた。


 しかし何であれを「統帥権」干犯問題と言わなあかんのんかちゅう素朴な疑問を持ってまうんやな。「統帥」ちゅう語ォは、言うまでもなく作戦・用兵に関するものであり、その帷幄上奏にかかるのは、参謀本部と軍令部である。んで、補助艦や主力艦の保有数を決定するのんは統帥とは全然ちごて、「編制」に属する事項であろうが。せやから、その責めは内閣とその一員たる海軍大臣が担うのんが当然なはずや。ところがや、この問題を語るとき、統帥権の根拠となっている旧憲法11条「天皇は陸海軍を統帥す」の条文は当然のように引き合いに出されるんやけど、「編制権」の根拠である同12条「天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む」が持ち出されることは滅多にあらへんのんが不思議なことである。わしのつことった日本史の教科書にかて、11条は載っとるが12条はあらへんかった。


 浜口首相と財部海相は編制権の条文を盾に抵抗したと思われるが、加藤軍令部長やらが「編制も当然統帥事項にかかわる」やなんてムチャな憲法の拡大解釈をして、その尻馬に犬養やら鳩一やらが乗っかって、「政治を知らん軍人が軍事を知らん政治屋に踊らされた」と井上成美に評される事態を招くことになったんは周知の通りやが、この下らん(軍縮会議が下らんのではなく、軍令部の明らかな誤謬を正せんかった当時の政府(殊に海軍省)・帝国議会・新聞が下らんのである)一件で一国の首相である浜口が右がかった男に殺されるまでに至らしめたことには、呆れるより他はない。この事件によって政党(特に政友会)は自らその影響力を殺ぐことになり、これに代わって軍部が宰相たるに相応しからざる宰相を送り込み続け、あの昭和の過ちを冒すに至ることを思うと、今でもこの問題に関心を持たざるを得ない。


 作家児島襄は、「当時の日本は軍部の政治不関与を、政治の軍事不関与と誤解した」と説き、さらに、国防は国民全体の問題であり、学問として広く一般に考究すべき事項であると訴えている。確かにこの「政党の自殺行為」が政治の軍事不関与に拍車をかけた側面は否定はでけんやろうが、元はっちゅうたら、軍令部のしょうもないイチャモンから始まったことであり、内閣や海軍省から見たら、それこそ「編制権干犯問題」であろう。今でいうたら、次期主力戦闘機にF22の導入うんぬんの問題に、統合幕僚監部が文句をつけるみたいなモンや。無論、機種選定に制服組の意見が全く反映されんのも問題はあろうし、同様に、ロンドン海軍軍縮会議に関して軍令部が意見したらあかんとは言わん。ただ、選定の際、コストパフォーマンスが絡むと、背広組と制服組とで意見の対立が起こることは十分想像でける(「数か質か」の論争は軍の内外で当然起こりうるし、対英米比率について海軍部内で意見が割れとった事実がある)。一概には言えんやろうが、用兵側は高価でもより高性能の兵器の導入を要求する傾向が強いと思われるんで、とどのつまり、それに掣肘を加える機関として軍政が重要な役割をすべきことがわかる。わが国は文民統制で制服組が政府に入ることはでけんさかい、「軍事を知らん政治家」が機種選定の最終決定を下すことになる。議会制民主主義国家では、編制は政治主導で行い、作戦・用兵は統帥部が編制で与えられた条件下で遂行するんが、まあ当然のこっちゃろがの。


 新たな兵器の開発に現場である軍隊の協力が得られれば、より優れた、より使い勝手の良い兵器が効率よく開発でけるんは当然で、日本も主力戦闘機の国内開発を目指すべきやろう。優れた兵器は優れた戦略を生み出すと考えられるからや。逆に、与えられた装備の制限によって、戦略や戦術が固定化することは絶対に避けやんとあかん。かような関係があるさかい、「編制」と「統帥」との間に混乱と混同が生じ易いことがわかる。それに、山下奉文が陸海軍を統合して国防省・国防総長を置く案を示したところ「憲法11条の大元帥直率に反する」やなんて、憲法解釈を知らんとしか言いようのない意見が堂々と罷り通って、折角の画期的な陸海反目の解決策が葬られたことがあったらしい。「軍人はアホやさかいしゃあない」なんて言われたらミもフタもあらへんが、軍隊の職制にまで軍令が容喙するんはスジ違いで、これも「統帥」側の「編制権干犯」の疑いがあるんちゃうけ?歴史の教科書はよろしく「編制大権」についても記述して、「統帥権干犯」その実「編制権干犯」であったと書き換えるべきなのではなかろうか?


 わし個人の考えでは、編制と統帥との間に軽重の差ァをつけるんは困難やろうと思うが、もしか、明治憲法の11条と12条の順番が逆やったとしたらでやったやろか、と考えてまうのである。少なくとも、統帥が編制より優位に立つと碌なことがあらへんことだけは確かなこっちゃわな。