E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

民主国家の意思は国民の意思の相加平均に非ず(1)

 何故こないなタイトルで書こかと思たかちゅうと、別に今選挙前やからいうのんと違て、日曜日(9日)に「や〇きのそこまで言って委員会」見とって、「相も変わらず反戦反核の連中はドタマが悪いのう」て感じたからや。ほんで、日本で8月いうたら「核と戦争」やしな。


 連中は、「戦争の本質はその残虐性にあるから、その部分を強調した論陣を張れば説得力が増し、世界中の多くの人々の共感を得られるようになる。そうすると、反戦の国際世論が沸き起こり、結果として、世界各国の政府も反核に舵を切るようになる」とでも思てケツかるんやろけど(わしにはそうとしか思えん)、政治やら戦争やらがそないに単純なモンなわけあらへんやろがアホンダラ。


 まず、戦争の本質を残虐性に求める前提からして間違うとる。戦争ちゅうと「ドンドンパチパチ」を連想する人が大半やろかも知らんけど、理論的には一発の鉛弾も飛ばず、一滴の血ィも流れん戦争かてありうんねんど。その典型例が「米ソ冷戦」やんけ(諜報たらに関わる犠牲者は無視する)。戦争、殊に近代戦争の勝負の行方は、優秀な兵士やすぐれた兵器がモノを言うんと違て、その当事国の持つ工業力の差ァで決するといわれる。76年函館にミグ25が強行着陸したことがあったけど、そのフォックスバットをバラした人が「オー、チューブーッ(真空管)!!」て絶叫したそうやないか。東西工業力の格差は歴然としておった。


 ヒロシマに投下されたリトルボーイに、ナガサキに落とされたファットマンが発揮した残虐性は改めて言う必要はあらへんやろう。が、これらは核の恐怖を裏書きしているものではあるやろうが、一方の指揮官が核の使用を希望した一部の戦争の「属性」を物語っておるものに過ぎない、とも言えるやろう。何が言いたいかいうたら、「一部の戦争で発揮された残虐な行為をナンボ声高に論うても、戦争を抑止することはでけん」ちゅうこっちゃ。


 ホンマに戦争を回避したい思うんやったら、戦争の本質にまで踏み込んだ議論が必要なはずやのに、反戦反核のアホ共は、核兵器の残虐性を、それこそ「水戸中納言の葵の御紋」やと勘違いさらしとるわけやな。言論には、かかる絶対者を立ててはならんちゅうのんが鉄則のはずやのに、思考停止したやつらにはそんなんどーでもエエねんな。


 ほな何で戦争の残虐性を説いても戦争を抑止でけんのか、ちゅうことに説明を加えやんとあかんやろな。それをつづきに書くことにする。