E-BOMBERのアホアホブログ

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速報・中共崩壊への道 (171)

金正男君暗殺事件を巡って、北○鮮とマレーシアの関係が俄に悪化した。いわゆる「特定アジア三国」と深く関わるとこないな具合に災難が降りかかるが、今度はマレーシアがその被害者になってしもたな。

 

もう一方の当事者のはずの中国は今んとこ沈黙に近い状態で、一部のメディアからは北京政府の姿勢を非難する声が挙がり始めたで。中朝関係は張成沢・元国防委員会副委員長惨殺事件以来溝が深まり続けとって、今回の事件はかなりデリケートな問題を孕んどるんかもしれんのう。

 

「晋の南渡後、約八百年にして、いはゆる靖康の難が起つて、宋が南に遷る。西暦千百二十七年に、宋は塞外種族の女真(金)の為に、その国都汴京を陥られ、宋の高宗は江南に遁がれ、遂に杭州浙江省)を行在として、茲に宋室を中興することとなつた。即ち南宋である。宋の南渡と共に、北支那の名族が尠からず、帝室に従つて江南に移住したことは、ほぼ晋時代と同様である。(中略)正邪は兎に角、南宋時代の著名な人物は、北支那から移り来た者が多い。南渡の後、宋の宗室は浙江と福建とに住居した。此等の事情は、勿論南方の開発に可なり大なる影響を与へねばならぬ。

 

南宋時代に於ける、福建地方の開発は、真に刮目に価する。北宋末に福建人の楊時(楊亀山)が二程子に学び、道を載せて南帰してから、福建は所謂宋学の中心点となつた。大儒朱熹の如き、貫籍は安徽人でも、実は福建で生れ、福建で学び、福建に住居して、福建で終焉した。即ち事実に於て福建人である。故に当時朱子の学派を指して、閩学と称した。(中略)実際道学即ち宋学錚々たる者には、福建出身が多い。(中略)若し当時の思想界から、福建出身者を除き去ったら、甚しく寂寞を感ぜねばならぬ。されば当時の福建を、古の鄒(孟子の産地)魯(孔子の産地)にも、中原にも比較したのは、誠に無理ならぬ次第である。この南宋時代に於ける福建の開発が、その隣接せる嶺南の文運に、甚大なる影響を及ぼしたこと、設想に難くない。事実嶺南の道学は、福建に淵源して、元時代には、或は中国に優る程の発展を遂げた。

 

翻つて五代から元初に至る、約三百五十年間に於ける、北支那の状態を見回すと、或は契丹、或は女真、或は蒙古と、絶えず塞外種族の圧迫を受け、又はその支配を受けた。文物の委微するのも、已むを得ざる次第である。この期間を通じて、南支那は終始漢族の君主を戴き、塞外種族の圧制といふ災厄から超脱して、その学術、文芸を保存助長することが出来た」

 

話は少々脱線するが、わしは小中学校で受けた変な教育のおかげで、宋都「汴京(現・開封)」がシュッと出て来えへん。「汴」の字ィが難しいんやったらカナ振ったらエエだけやんけアホ。

 

朱熹の開いた朱子学のおかげで、わしら現代日本人は「特定アジア三国」からえらい迷惑蒙ったあるねんやんけアホ。韓国で「親日」のレッテル貼られて、事実上国外追放されてしもた呉善花拓殖大教授によると、朱子学に凝り固まった韓国人は情緒に反する事実を事実として受容でけんそうや。ある意味「儒教の劣等生」で、多神教崇拝の日本人はこの「儒禍」を免れ、近代国家に向けての離陸が自力ででけたちゅう訳やな。

 

前にも書いた思うけども、中国のことを決して「孔孟の国」やなんて思たらあかんで。孔子孟子も、中国人民に五徳が完全に欠如したあることを歎いて儒学をおっぱじめたんであって、「孔子の後に孔子なく、孟子の後に孟子なし」が、このヒサンな大国の実情やねんやんけ。(つづく)