E-BOMBERのアホアホブログ

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速報・中共崩壊への道(117)

産経新聞の北京駐在・矢板記者の解説によると、習近平氏は国内でデモが頻発する状況を誤魔化す目的で、尖閣に漁船団を送って日本との対立を煽ろうとしとるそうや。それに対して、中国共産党長老の改革派は、外交的孤立と経済危機の到来を恐れてか、対日米協調路線を主張して、習執行部と対立しているらしい。

まあどっちにしても、中共に明日はナイ。何となれば、反日を貫くんは勝手やけども、所詮中国経済人民解放軍も日本からの部品調達が杜絶してしもたらその途端に消し飛んでまうんやからの。それにや、対日米協調に舵を切ったぐらいで、中国の経済問題も環境問題も解決せえへんわい。今の中国に絶対必要なことは共産主義体制からの脱却やけど、いかに改革派の長老でもそこまでの覚悟はあらへんやろう。んなことしたら確実に国が割れてまうさかいの。

今回も桑原隲蔵先生の「支那猥談」や。

支那人の性格や能力に就いて、種々の説が発表されて居る中で、吾が輩はリチャルド(夏之時)氏の支那人の智的能力に関する左の所説に深き共鳴を感ずる。

〔過去に於ける〕支那の教育組織は国民の記憶力を発達せしめた代りに、その判断力やその推理力を委縮せしめた。故に支那国民の智識は散漫で表面(うはつら)で、統一を欠き、又徹底して居らぬ。彼等は全然批判的精神をもたぬ。彼等は原因と結果との関係においての思慮が十分でなく、又事件の全体を達観することが出来ぬ。彼等の個人的若しくば団体的行動の間に、多量の浅慮と妄信とを認めることが出来る。

此の所説を基礎として、支那の過去や現在を可なりよく了解することが出来るやうに思ふ」

これは恐らく科挙の功罪について述べたものや思われる。科挙に及第して進士になろう思たら、それこそ厖大な量の文章を無批判に記憶するしかあらへんさかい、中国歴代の知識階級のドタマが硬直化してまわん方がおかしい。先生の中国人の保守性の説明によると、彼らは真の改革がでけんで、新制度を導入する場合でも旧制度を温存しようとする。せやさかい、長い歴史の中で相矛盾する学説が出てきても、何の疑問も感じることなしに「両論併記」でお茶を濁すことになるやろう。そんな学問環境の中で、論理的かつ批判的な言論が発達する訳があれへん。現今の憤青ならぬ糞青の非論理的かつ感情的な言の源泉は正にここにありで、ノーベル賞科学者が出にくい環境かてこないして整備されたんやろう。

「之に就いて憶ひ起されるのは支那の車夫である。現時は知らぬが、今から十年も以前に、北京や天津辺りを観光した人は、誰も経験する如く、支那の車夫は客を乗せると、その行先きを問ひ質さずに、自分勝手の方向に驀進する。(中略)同様の欠陥が支那の学者に着き纏うて、彼らの研究は常に批判が十分でない。支那の学問の中心は経書に在るが、支那の学者は経書の解釈に全力を尽くす。此の如くして通志堂経解とか皇清経解とか続皇清経解とか、経書の解釈は文字通り汗牛充棟の多きに達するが、その経書の真偽、さてはその制作年代等に就いては、彼等は殆ど研究の手を着けぬ。故に四書五経の中に、その来歴の徹底的に究明されたものは一部もない。支那の学者は畢竟本体の不明な経書の解釈に忙殺されて居るので、行先きを問ひ質さずに驀地(まっしぐら)に駆け出す車夫の態度と同様である」

推測するに、現在でも中国の人文科学研究の態度はこれと大して変わらんやろう。ましてや、政治があらゆるものの上に来る共産主義国のことや。学問かてその例外やあらへんわい。しかも、彼らは長い歴史の中で積み上げられた経書の存在にただ陶然とするのみで、それを批判的に捉えようとすることは己の国の輝かしい歴史を否定することになると見る。結局、かかる大中華思想を捨て去れんうちには、中国人に論理的かつ理性的な思考など芽生えるはずもなく、経済大国に向けての離陸なぞ夢のまた夢ちゅうことになる。一部には「虚心坦懐に日本に見習え」て主張する人もおらんではないが、所詮は今の共産党改革派の長老共と一緒の発想で、パッチを当てて誤魔化すことに過ぎん。

さすがに今の中国のタクシーの運ちゃんは客に行先を聞くやろうけど、ぼったくり目的でわざと遠回りすることが珍しないそうや。文明発祥の地のなれの果てがこのありさまとは、何ともでけ過ぎた皮肉やないか。(つづく)