E-BOMBERのアホアホブログ

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速報・中共崩壊への道(107)

かなり昔、ある人が「世界の動きを知りたければ、本など読んでいてはダメだ」と書いとったらしいが、それではおのれの立場を否定してることにならんか?まあ確かに真理を衝いてはおるが、ミもフタもナイ話やがな。

わしゃ世界がどないなっとんのかしらんでもエエさかい、中共の勢力が日本に牙を剝いた場合、これを確実に返り討ちにでけるような手段がしりたいし、尖閣や南海の国際法に悖る行動を止めさす方法がしりたい。いや、わしがしらんでもエエさかい、それを日本人の誰かにめっけて欲しい。そのヒントになる可能性があるからこそ、桑原先生の著作をここに紹介することにしてんねんがな。

今回も前回の続きで、「支那人の猜疑心」と「支那人の妥協性と猜疑心」のまとめや。

支那の官吏は君主の猜疑と同僚の媢嫉の間に、一身の安全を図るべく、われわれの想像以上の苦心を費す。賢哲保身とて、一身の安全を図ることが、支那官吏処世の第一要義となつて居る。(中略)唐の大臣に蘇味道があつた。事を処するに常に模稜両端を持し、決して明白なる意見を建てぬ。故に時人蘇模稜と称したと伝へられて居るが、多少の差こそあれ、支那の官吏は大抵蘇模稜の流亜と思ふ。近代の曽国藩の如きも、拙進而巧退の五字を以て、官場成功の秘訣と申して居る。事実支那官場の如き猜疑百出の裡に立つて、一身の安全を期するには、積極よりは消極、活動よりは寧静、革新よりは保旧をとる方が得策に相違ない。亢竜は悔があつても、括嚢には咎がない。猜疑心の強い支那人は、他人の為すべきことには牽掣を加へて、自分の為すべきことには推●(引用者註:言扁に委)する。推●と牽掣では一事も成功する筈がない。光緒31年(明治38)に、貝子載振が中国の官制改革を奏請した時に、推●と牽掣を挙げて、中国官制の二大弊竇と指摘して居る。この二大弊竇は、畢竟支那人の猜疑心に由来するものと認めねばならぬ」

こればっかりは、体制が帝政であれ共産主義であれ、中国人の宿痾なんでどないもこないもならん。首鼠両端態度が決まらぬ体質は、現在の中共指導層にもそっくりそのまま当てはまる。経済発展が曲がり角を迎え、不動産バブルも崩壊し、株価も低迷した局面においては、国家の抱える矛盾を剔出するための大改革を要するけども、んなことしたら己の首が危ないさかい手をつけられん状態にある。こんなんではいわゆるソフトランディングは余程の僥倖がなかってはまず不可能で、間もなく中国大陸は天下大乱の時代に突入すると思ふ。

しかも、かくも猜疑心の強い中国人では、チームを組んで大事に当たるやの、協同して難問に立ち向かうやのことがでけそうにナイ。胡適は中国人を砂粒に例えてその結束力のなさを嗟嘆したが、わしら日本人には粘土のごとき結束力がある。全体主義に流れる危険性があるけども、一丸となって困難に立ち向かうことがでけるんで、国家危急の秋には掛け替えのない強みとなろう。

現代社会はゲゼルシャフト(利益共同体)によって動かされる傾向が強まっておるにも関わらず、中国社会では組織が相変わらずゲマインシャフト(縁故共同体)的な発想で動いとるんやないかて想像される。それは、メンバー一人ひとりが他のメンバーに猜疑心を抱いておっては、ゲゼルシャフトの運営なんかうまいこと行く訳あれへんからや。中国人は社会学的にも近代化されてへん可能性があるな。それは、中国の会社の寿命が日本のそれの半分程度でしかないことにも表れとるんやないやろか。

支那は家族主義の国柄である。その家族の中心をなすべき父子の親といふことが、支那の国家や社会の基礎をなして居る。然るに支那の歴代を見渡すと、家を整えて天下の師表となるべき、天子と皇太子との間に存外不祥事多く、皇太子の終を全くせざる者が鮮くない。畢竟皇太子の位置にあるものは、他の皇子から嫉妬され、天子から嫌忌され易い結果に外ならぬ。この歴代の弊に懲りて、清朝では、天子の生前に皇太子を冊立せぬのを家憲とした。(中略)かくて天子はその生前に、諸皇子の中で尤も聡明なる者の名を自署し、之を匣内に密封して、乾清宮内の世祖御筆の正大光明と題せる額後に蔵して置く。天子の崩御の直後に、王大臣立会の上で、その匣を開きて、署名の皇子を位に即かしむるのである。之を清朝密建の法といふ。(中略)」

中国では、成り立ちはゲマインシャフトでありながらゲゼルシャフトの性質が強い帝室の運営がうまいこと行かん例が多い。本邦においても飛鳥三朝や院政時代などに天皇の冊立を巡る皇室内外の主導権争いは珍しいことやなく、天皇家内で血で血を洗う凄惨な事件かて起こってはおる。せやけど、それは千数百年以上の歴史を誇る帝室なればこその話であって、高々数百年の歴史しかあれへん中国歴代の帝室で似たようなことが繰り返し繰り返し起こってることは特筆に値する。権力が絡めば身内と雖も油断ならん殺伐とした中国の猜疑社会の凄まじさよ。

その帝室も外戚が実権を握るようになるとゲマインシャフト的になるが、天下に号令する立場の帝室がゲマインシャフトでは情実人事が幅を利かせるんで国が危うい。かっちゅうて、男女の別が厳しい中国の帝室に生殖能力のある男女が帝室にホイホイ出入りするんは猜疑心や嫉妬心を刺戟するさかいそれも現実的やナイ。ちゅうことで編み出された制度が宦官やな。桑原先生は宦官についての論考もものしておられるが、それは機会を見て紹介することにしよか。

「妥協性と猜疑心、これが実に支那人の二大痼疾である。この二大痼疾を剔去せねば、支那の改造は到底難事かと思ふ。妥協そのものは必ずしも絶対に排斥すべきものではない。互譲の精神は如何なる場合にも寧ろ必要である。唯妥協にも互譲にも、主義や節操を忘れてはならぬ。支那人の如く主義や節操を放擲した妥協は苟合である。一時の苟合は却つて百年不安の種を蒔く。瓦全よりは玉砕、苟合よりは衝突の方が望ましい。孟子が枉尺而直尋(引用者註:尺を枉げて尋を直くす)ことを否定するのはこの故である。(中略)」

日本の政府やマスコミが言うことは頭ごなしに否定する癖に、北京政府の言や人民日報に書いたあることを鵜呑みにする中国人は、妥協性・猜疑心とはまた独立に洗脳のおっとろしさを体現する存在やとも言える。彼らの洗脳が解けたときの反応が今から楽しみじゃわい。でも、洗脳を解いた後には中華民国レベルの思考しかでけん中国人が大量生産されることになり、国家改造の前途は遼遠にして涯なき旅路となろう。

「大の虫を生かして小の虫を殺す」とは、妥協を好む安もんけの政治家が言いそうなことではある。孟子がそれを戒めたんは、んなことしたら百年の悔いを残すからやろう。そういや国会答弁で「中小企業の社長の二、三人が首括っても仕方ない」て言い放って大臣を棒に振ったカバみたいな顔したおっさんもおったなあ。法文の一本変えただけで多くの人の運命が左右されることは事実やけども、そないバカ正直に言わんでも。

実際、権謀術数を巧みにしてフィレンツェマキアベリに絶賛されたチェーザレ・ボルジアをもってしても、イタリア半島の統一は成らんかった。やっぱし、チェーザレみたいに「権道」を行く者は人々の信望を得ることがでけんで、国家統一の大業も道半ばで挫折してまうんやろな。中華人民共和国の将来も、分裂抗争期のイタリアと同様の道を歩むことになるかもな。

「治日少而乱日多とは支那人の常套句である。支那の歴史を見渡すと、いかにも太平の日が少い。上下四千載の歴史は、梅雨期の天気の如く、陰鬱の影多くして光霽の趣に乏しい。支那人が黄金時代と誇称する周ですら、太平の日は僅に五六十年に過ぎぬ。その他推して知るべしである。此の如きは妥協と猜疑の必然の結果でなからうか。征伐すべきものも、鎮圧すべきものも、すべて妥協によつて一時を糊塗するから、不安の原因は何時までも根絶せぬ。根絶せぬ不安の原因は、君臣同僚此の猜疑によつて一層増進する。梁啓超は曾て中国の積弱は防弊―官吏を猜疑すること―に由るとした。之にも半面の真理はあるが、吾が輩はこれに苟合を加へ、中国の積弱宿弊は、多く支那人の妥協性と猜疑心とに本づくものと信じたい」

つまり桑原先生は、治乱興亡の歴史は中国人が自らそうならしめたと言いたいのだろう。戦争は次の戦争を生むことは歴史が示しておるし、剰え戦争の種を根本から摘み取ることをせず、その場凌ぎの弥縫策で済ますさかい、次の戦争が起こるねんな。ほんで中国人は、どうせ太平の日なんか長続きせえへんからと刹那的な思考しかでけんようになり、パッチをかましお茶を濁すんが習慣化する負のスパイラルに嵌って抜けれんようなったちゅう訳や。尖閣を巡る鄧小平と福田赳夫の間の交渉かて正にこれで、鄧の弥縫策に福田がまんまと乗せられてしもた結果やな。中国の妥協には気ィつけんとあかん。

「近頃支那人の覚醒といふことが、新たに問題となつて来た。多くの論者は支那人最近の覚醒に重きを置き、今日の支那人は最早前日の支那人にあらずといふ。吾が輩は支那人覚醒の程度に就いて、多少疑惑をもつて居るが、若し真に支那人が覚醒するものならば、彼等の覚醒は、自己反省から出発せなければならぬと思ふ。外に向かって軍国主義を攻撃し、民族自決を絶叫する前に、彼等自身の徳性の欠点の改造が更に一段の必要であるまいか。中国積弱の最大原因は、外的よりも内的に存在する。(中略)内的改造は改造の第一義でなければならぬ。支那人自身が彼等の心中の欠点短処―例へば妥協性・猜疑心の如き―から脱却せざる間は、真実永遠なる改造は到底期待し難かるべしと思ふ。吾が輩は支那人最近の覚醒の根本的徹底的ならんことを切望する者である。かかる根本的徹底的の覚醒こそ、日支両国共通の幸福であらねばならぬ」

と先生は締めくくっておられるが、残念ながらこの最後の一節は今日の中国人にもそっくりそのまま当てはまり、すなわち中国人は未だ醒めとらん。対外拡張主義を怖めず臆せず振り翳す一方で、日本の軍国主義復活を懸念する言辞を弄する中国人に、どうして自己反省など感じられようぞ。

問題の先送りは日本人の常套手段でもあるけども、現在中国で中国人の妥協性が隠されてるように見えるのんは、共産主義国の意思決定がトップダウンで迅速やからや。せやけど前にも書いたように、経済停滞が誰の目ェにも明らかになった今になっても、それに対する抜本的な対策を立てられんことで、遂に馬脚を現した恰好や。やはり中国人は弥縫策が大好きな人種であることがここに改めて証明された。

ともかくも、この一編の論文を読むことによって、中国人の近代的な組織の運営能力には大いなる疑問があり、国家のみならず、軍隊などの巨大な組織の運用の際にボロが出ることはまず避けられん思われる。敗戦の責任の他者への擦り付け合いなど醜悪な闘争が展開するんやないかと想像され、何れにせよその最期は惨憺たるものになること間違いなさそうや。中共崩壊後も中国の夜明けは遠い。

これで、「支那人の妥協性と猜疑心」はしまいや。多分これを読んで安心する日本人は多かろうよ。この他にも桑原先生の日本人に有益な論文はあるやろうから、今後暫くはそれらの紹介を続けることにしやうぢやないか。(つづく)