E-BOMBERのアホアホブログ

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速報・中共崩壊への道(103)

ある国や国民のことをしろう思たら、やっぱしその国の歴史を調べやんとあかん。桑原隲蔵先生の論文読んで改めてそない思う。これらの論文には、現代中国に対処するためのヒントがようさん入ったある思うからや。正に「温故而知新」やな。

今回も前回の続きで「支那人の保守」からや。

支那人は一般に模倣は上手であるが、応用が不得手である。之は勿論彼等の先天的素質にもよることならんが、一は古人の手本のみに重きを置く(中略)、後天的原因も亦与って力が多いことと思ふ。それも畢竟先例に重きを置くと同様、型に捉はれ易い気質をもつて居るからである。

三十余年間支那に居ったスミスといふ米国の宣教師は、曾て支那の教師は無冠の帝王であると評したことがある。支那では教師の一挙一動は、すべて学生の手本となるからである。支那の学生はすべて教師の授ける所を鵜呑にする。教師の身振や習癖まで真似するのに苦心する。(中略)」

日本人はある意味中国人以上に模倣が上手や。それは、応用力があるさかい原本よりも優れたモノに改変してまえるからやな。一方、応用が利かん中国人は、原本に忠実に複製することにのみ注目し、何故に原本がそのような構造しとるんかまで頭が及ばんのである。与し易き哉中国人。

また本文には、フランス人宣教師が部下の中国人教師に、もののついでに彼のおかんに手紙を出すことを勧めた所、その教師は教え子に代作をするよう命じた。宣教師はその学生が教師のおかんと一面識もあらへんことを訝るが、教師は不思議そうな顔をして

「『私は彼の学生に一年以上文章の作製法を教へた。最早書式や熟語を可なり知つて居る筈である。子から母へ差出す手紙の代作位は容易なことである』

と答へた。(中略)彼是する間に、さきの学生は命ぜられた通り、手紙を認め、且つ封緘して持つて来た。教師は文書の文面も改め見ずに、その儘封筒に住所を書き添へて、飛脚に渡したといふことである。この事実は一面では、支那人の孝行は、極めて形式的であるといふ証拠にもなり、又一面では彼等の手紙は極めて紋切型のものであるといふ証拠にもなると思ふ。

支那人は一般に精神よりも、形式に重きを置く傾向がある。これも彼等の保守気質と関係せしめて、説明することが出来る。(中略)長い年月の間には、種々の事情の為、先例そのものの精神が疾に失はれても、その形式だけを大事に守つて行く。支那人の習慣のうちには、名実隔離して、他国人から観ると随分奇妙なことが多い。(中略)」

現代の小皇帝とその両親との関係はかなりベタベタしたものになったあるやろうけども、それは精神的な紐帯ちゅうよりも物質的な関わり合いに過ぎない、て言えるんやないかと推察する。せやさかい、人民解放軍の部隊に投降を呼びかける場合、日本兵に呼びかけるみたいに「故国の父母を悲しますること毋れ」言うてもあまり心に響くことはあれへんやろうから、「故郷の父母に何も買ってもらえなくなるぞ」言うた方が効きそうやな。

しかもや、名実が大きく隔絶した習慣を墨守するまで徹底した先例主義では、戦闘においても臨機応変に作戦を変更することなどなかなかでけんやろう。こういう軍隊は軍隊として機能せえへん。

「いくら保守的の支那人でも、長い年月の間には、種々の必要上、随分制度改革を実行した場合も尠くない。併しかかる場合でも、支那人は決して在来の制度を捨てぬ。旧の制度はその儘に保存して、新しき制度をその上に添加するのである。

清朝の兵制の変遷を見ても同様である。清朝は最初緑旗(緑営)の兵で地方を守備し、八旗の兵は一面皇城の守備に当り、一面地方の緑営の監督をした。この緑営と旗兵で天下を弾圧したが、時を経る儘に、旗兵も緑営も腐敗して、実戦に間に合はぬ様になる。長髪賊の起つた時には、各地方で義勇兵が組織されて、これが旗兵・緑営以上の手柄を建てた。そこで乱後もその義勇兵(勇兵)をその儘に保存して、一団の常備兵が出来上つた。併し従前の旗兵や緑営に手を着けぬから、つまり二重の兵制を維持せなければならぬことになった。日清戦役後、支那で段々洋式の新軍が組織される様になつても、矢張り従前の兵隊を全く解散せぬ。(中略)」

中国社会が矛盾だらけなんはこれが原因やな。「社会主義市場経済」なる奇妙な制度なんか正にそれで、他にもデフレ局面にあってデフレ要因を排除せぬままインフレ政策を推進するようなモンで、現代中国にはこの種のアクセルとブレーキを同時に踏むようなことが各所で行われてると見てまず間違いあれへんやろう。

しかも、軍制改革の進め方は朝鮮にも上みたいな例が見られる。普通、装備の近代化を図る場合には旧装備を残らず廃却してまうんやけども、中朝の場合は旧装備を履いた軍隊をそのまま温存して、別個に新装備の軍隊を編制するねんな。これには旧来の手法をそのまま利用でけるちゅう数少ない利点もあるけども、中長期的に見れば弊害の方が多いんは明らかで、現に李王朝末期に新旧両軍の衝突が起こった例かてあるし、正に唾棄すべきやり方や。わざわざ内乱勃発の発火点を設けてどないすんねんな。

支那人の遣口はすべてこれである。故に支那には厳密の意味の改革といふことが甚だ稀で、従つて支那には進歩がない。支那梁啓超が、曾て我が矢野(文雄)公使に面会した時、明治十四年に出来た黄遵憲の『日本国志』によって、種々日本のことを質問すると、矢野公使は、

『日本国志』は約二十年前の書物である。日本の十年間の進歩は、支那の百年以上に当る。『日本国志』で日本の今日を忖度するのは、丁度『明史』に拠って支那の現状を論ずると同様、事実を隔たること遠い。

と答へた。その後梁啓超は日本に渡来して見ると、矢野公使の言、人を欺かざることを発見したというて居る。」

つまりこれ、現代中国は71年以上前の日本を以って現代日本と看做しとるさかい、今の日中関係があるちゅう図式と一緒やな。それにしても、桑原先生の論文が百年近く経過しても全然古なってへんのにはいよいよ驚かされる。

支那は早くから西洋の新文明に触接したが、例の保守と自尊とが邪魔をして、中々新文明を採用させぬ。所が日清戦役と日露戦役とによって、流石に四千年来の長夜の夢を醒まして、変法自強を唱へることになつたのは、よくよくの事で、支那人も自白して居る通り、支那開闢以来未曾有の現象である。保守的な支那人の間に、この革新の気運が何時まで継続するかは可なり疑問である。たとひ継続することにしても、支那人は日本人と違つて、古来殆ど自国の文明のみを保持して来たので、他国の文明を摂収して、国運の増進を図つた経験が多くない。西洋の新文明を輸入するにしても、如何にして其の国の旧文明と調和せしめるであらうか。

東西の文明の調和といふことは、我が日本にとつても重大なる問題に相違ないが、併し我が国は或は三韓、或は隋唐と、古来外国の文明を取って、自国のそれと調和せしめた経験に乏しくない。かかる経験のない支那は、この問題の為に、一層の苦心を要すべき筈である。」

中国人は表向き日本嫌いを表明して憚らんのが日本好きよりも圧倒的に多い。せやのにネットでは、「ポケモンGO」の中国上陸はいつだなんて書き込みが後を絶たん。日本のマンガやアニメなどのサブカルも中国の若者を魅了しとるし、「三国志」なんか一体通算何本のゲーム出とるんか想像もつかん。

中国のメディアでは日本で中国人にも人気の「三国志ゲーム」などが作成される現象を「日本の文化侵略」と称しとるらしいが、中国国内で「文化侵略」なんてコトバが堂々と語られるようでは、中国の夜明けはまだまだ遥か遠い先の話で、日本も枕を高うして寝れそうじゃわい。

それに、中共では改革開放後は積極的に西洋文明を採用し始めとるが、それと同時に中国伝統の文化を自ら破却するようなって、残念ながら桑原先生の懸念は的中してしもた。

ここには書いてへんことやけど、中国人が日本人よりもオリジナリティの高い民族であることはわしも認める。日本文化の中には古代中国に源を発するものが数え切れんほどにようさんあることがその証拠や。ところが中国人は作ったら作りっ放しで、改良ちゅうことを全くいうてエエほどせん。これこそ桑原先生の言う保守性の弊で、旧態依然を良しとするさかい、時代の趨勢によって風化してまうんは当然や。

その、中国をオリジナルとする数多の発明は日本で今もそれが生き延びてる。伝統は時代と共に変わって行くことによって守られるモンであることが、漆器などを見てるとよう分かる。一度発明されたモノの中にも創意工夫を凝らす余地が多分にあることを日本人は理解でけてるから伝統が守られて、オリジナルにのみ拘泥する中国では程なく廃れるんは当然のことやな。

明治生まれの人が大正・昭和初期に書いた中国研究論文が21世紀の世においても役立つんは、「支那人には進歩がない」からである。一部で科学の発展は見られても尚古の気風が技術の進歩を妨げ、それは間違いなしに科学の進展をも阻害する。せやさかい、中国が中進国のワナを自ら取り払って先進国の仲間入りを果たす見込みはほぼナイ。少なくとも、中国人のネットの書き込みから「コピーしてまえ」が消えへんうちには、先進国になることなんか絶対にナイわい。

これで、「支那人の文弱と保守」の紹介は終わりや。せやけど、桑原先生の論文にはこの他にも現代中国への理解の助けになるものが数多くあるんで、暫くはわし自身の勉強のためにも、桑原論文の紹介を続けることにする。(つづく)