E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

速報・中共崩壊への道(14)

 わしも間もなく五十面提げたおやぢになる。仮にも今や緊迫した北東アジア情勢について書いてるのに、大阪弁つこて説得力を欠いた表現をするのもそろそろ考えものになって来た。なので、今後は○神やギャグなど以外については、できるだけ標準的な日本語を使ったブログを書きたいと思う。

 今回も前回に引き続いてチョソン半島事情について書くことにするが、この地域は古来、中国の勢力に翻弄されつつも中国の庇護を受ける複雑な歴史を辿って来た。その性質は王朝交代期により顕著になるので、朝鮮の歴代王朝の崩壊と成立とをできるだけ詳細に知ることはわが国にとっても無益なことではあるまい。

 わしら日本人が小中高で受けてきた歴史教育によると、朝鮮の歴史は紀元前108年に前漢楽浪郡平壌附近)を置いて現在の北○鮮に相当する地域を支配した辺りから始まる(檀君朝鮮は科学的根拠のない架空の王朝で、せいぜい中国系の箕子朝鮮ぐらいまでしか遡れない。実在が明らかなのは衛氏朝鮮以降である)。朝鮮半島南部では三韓がそれぞれ分立し、これが現在まで続く慶尚道全羅道との対立の原因になっている。狭い国土の中で同胞であるはずの全羅道さえ敵視し、しかもカビの生えた華夷思想を未だに信奉する韓国が、日本と真の友好関係を結ぶことなど極めて困難なことである。

 南の韓民族三韓に対して、北の楽浪郡帯方郡などを亡ぼして立ったのがツングース系の高麗人の王朝・高勾麗で、その軍事力は中国をも一目置く存在であって、好太王は倭に服属した三韓を撃退するなど活躍した。つまり、北と南では民族系統が異なり、現在でも自らを「高麗人(コリョサラム)」を名乗るチョソン人はかなりいるらしい。だから、南北統一後も国民国家になることはまあ期待できるが、その半面、深刻な地域対立を伴うものになる危険性もある。

 当初の高勾麗は三韓を度々脅かしたが、南北二方面に備えねばならない地政学的な事情から次第に新羅百済に圧迫されるようになり、大陸の南北両朝に朝貢して命脈を保とうとする。だが、隋を破り、当初は唐をも退けた高勾麗もじわじわと国力を殺がれ、唐に臣従して台頭する新羅との挟撃によって平壌は陥落し、新羅による半島統一が成る。こうして、朝鮮統一国家もまた中国王朝の庇護の下に置かれるようになった。

 統一新羅も8C後半には叛乱が起こるようになり、王位簒奪が度々起こるなど政情不安が広がり始める。9C中ごろになると叛乱は地方にまで及び、全羅道後百済が、北○鮮で後高勾麗が分離独立する(後三国時代)。後百済討伐で名を挙げた後高勾麗の王建が王(弓裔)を倒して高麗王となり、後百済新羅を下して半島を再び統一した(936年)。高麗は五代十国で混乱する中国勢力を用いずに統一を果たしたものの、960年に大陸を統一した北宋朝貢することになる。ただ、北宋には唐のように胡族を撃退する力は最早なく、鴨緑江豆満江北岸には契丹(遼)の勢力が伸びて来た。これにより高麗は契丹に臣従するようになる。

 契丹に王都開城を度々侵されて高麗も我慢ならなくなったか、再び宋に朝貢して遼に対決姿勢を示し、一時は遼を撃退するも、遼が高麗に女真族の住まう江東六州(平安北道)の領有を許すのと引き換えに再び遼に服従する。

 その遼も12Cには女真族の率いる金に滅せられ、今度は朝貢先を金に鞍替えする。ところが13Cに金が蒙古に押されて弱体化するや朝貢を停止する。この当時、高麗は政治に倦んだ国王を廃して武人による政権(崔氏政権)を運営していたが、南下して来た蒙古の武力に屈服した。

 蒙古は歴代の宗主国と違って内政干渉を行うばかりか、済州島のゲリラ勢力「三別抄」を潰滅させ、次いで高麗を前線基地として日本攻略に打って出た。元寇は高麗の忠烈王の意向を受けて始められ、実際に高麗人の多くが日本に送り込まれた(「高麗史」)。韓国人は我々に「千年の怨み」があると言うが、彼らには日韓併合や壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)などの知識はあれど、文永・弘安の役新羅(高麗)の対馬・北九州入寇などはすっぽり抜け落ちていると見える。まことに歴史偏向教育とは恐ろしい。

 世界帝国を築いた蒙古勢力も14Cには衰退するや高麗は元への朝貢を停止し、断交にまで至る。大陸では紅巾の乱が起こり、紅巾賊は半島にも侵入し、一時的に開京(開城)を陥落させる。また、度重なる倭寇の侵掠によって高麗は弱体化するが、その混乱の中で李成桂が台頭する。

 大陸では元が明によって北辺に追いやられ(北元)、高麗は今度は明に冊封せらる。これにより、高麗国内では親元派と親明派が分裂抗争を始めるが、李成桂は親明派について親元派を廟堂から放逐し、王を擁立するなど実権を握り、遂にはその王を廃して自立し、明から権知朝鮮国事と認められる(李氏朝鮮)。朝鮮はまたも中国をバックに王朝を亡ぼして、新たに中国をバックにした王朝を誕生させた。

 その後、壬辰・丁酉倭乱で明は衰微を始め、中国東北部に後金(清)が勃興するが、これに際して李朝は当初明・清二重朝貢をすることになる。時の朝鮮王・仁祖はその後の両国の勢いを見誤り、清を蔑ろにするようになる。怒ったヌルハチは1627年に朝鮮を攻撃し、仁祖は清の弟となる条件で講和する(丁卯胡乱)。その後1636年には清太宗ホンタイジの機嫌も損ねてその親征を招き(丙子胡乱)、仁祖はホンタイジに屈辱的な礼を強いられる。その証拠がソウル蚕室附近の「大清皇帝功徳碑」である。

 仁祖はこれにも懲りずに清への怨念からますます明に傾注するようになるが、明は亡び、清が統一して宗主権が確立し、ほぼそのままの体制で日清戦争に至る。しかし、内心では清を蛮族と思い、自らを明の後継と看做す小中華思想が発達する。これが現在もこじれ続ける日韓関係の原因の一つである。

 李王朝末期にも見られるように、歴代の朝鮮王朝は宗主国をとっかえひっかえして糊口を凌いで来た。時には漢民族の王朝、時には征服王朝、時にはロシア、時には日本という具合である。だから、米国が韓国を見限って、中国とのパイプを自ら断った北○鮮に接近して来たとしても、北にはそれを断る理由がない。結局、この半島は時の大国によって翻弄される運命にあると言えるのではあるまいか。今後、南北は統一に向かうにせよ分断が存続するにせよ、日米中ロの影響なしとしないことだけは確かだろう。ともかくも、流動化を始めた朝鮮半島情勢から目が離せなくなった。