E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

わしのなつやすみ(2)

 考えてみりゃ、偉くないヤツの夏休みの様子を書いたブログ読んだかて時間のムダやとも思うが、わしのブログを含めて、世に数あるブログを読むこと自体が時間のムダやねんさかいまあエエやろ、と不遜な考えを含みつつ、人気ゲームタイトルのパクリから思いついた下らん文章を書き進めることにする。


・大学の夏休み

灰色の受験生活からようやっと解放されたが、容姿十人並み以下で話術も拙く、「カネがない」が口癖のモテない理系単科大学生の夏休みは貧しかった。1年のときは慣れない関東での生活の疲れもあって、趣味の「青春18」による「乗り鉄」は、和歌山方面だけやった。

 それでも2年のときは周遊券を買うて北海道に渡った。東京・大阪の暑さに慣れた体にブラッキストン線以北の気候が効いて、稚内でカゼひいてしもて、宗谷岬をやめてノシャップでガマンした。それでも、ポツポツと東西に並んだ島影を見て、「ああ、あの辺に大泊港があんねんな」と、生まれて初めて南樺太を拝むことがでけた(あの頃のわしはまだ左寄りで、「ここは異国の地に非ず、あくまで領有権未確定地」という意識はなく、外国を初めて見たのに近い感動をしてた)。

 3年の夏は岡山-高松-徳島-淡路-明石と渡った。岡山-高松間の電車(223系)は満席で、ドア近くに立って車窓をみておった。橋に差し掛かって不図下を見ると海面が見えて、高所恐怖症のわしは思わず後ずさりしそうになった。徳島から乗った淡路津名港行きのバスが大鳴門橋を渡っておるときにもコワさを感じた。出かけるのが遅かったんで、淡路北端の岩屋に着く頃には日は暮れて、明石行きの船で暗い海を渡ったときにも何ともいわれぬ不安感があったのを思い出す。まだ明石海峡大橋は架かっておらなんだ。

 4年の夏は再び受験生になって大変やった。就職せずに進学するからには授業料の安いとこでなかったあかんと親に言われておったんで内部進学を諦め(いや、諦めるも何も、席次は下から数えた方が早かったし、しかのみならず必修科目の単位の取り残しがあったんで、向こうから門前払いや)、必死で英語・数学・物理学・専門(当時、電磁気学と回路理論が必修で、試験会場で電子回路・電子計測・電磁波工学・電算機科学・半導体工学から3科目選択)を、専門書を頭から尻まで読み通す積りでやり、果ては学生実験のレポートのコピーまで読み直したりした(これが良かった。電子計測にインピーダンスの測定法の一つを挙げて説明せよ、というのが出たので、「ドロップ法」を書くことができた)。


・大学院の夏休み

M1になって、夏休みが10日前後に短くなってしまったのが悲しかった。でも、M2やドクターが殆ど夏休みなしで頑張っていたから、まだマシだったかも知れない。少ない夏休みを利用して、最近の豪雨で被災した佐用を通る姫新線で新見から山陰に出て三江線に乗りに行く計画を立てて出掛けた。ところが、当時の姫新線気動車列車には冷房がついてへんかって、それまでの疲れもあってか新見に着いたらフラフラになってしもた。しゃあなしにこっから先の旅程を諦め、岡山から当時まだ乗ったことのなかった赤穂線回りで大阪に引き上げた。親父曰く、「昔の夏の旅行は大変だった」と。成る程、昔の「死のロード」はそれこそ夜行列車に食料の詰まったリュック背たろうて渡り歩いたそうやさかい、めっちゃしんどかったやろなあ。今の〇神は宿舎もホテルやねんし、専用のバスも新幹線も空もあるし、京セラも使えるんやし、全然「死」なんかと違うわなあ。それやのに何や今日(15日)のテイタラクわい。いや、ここは「わしは単純な〇神ファン(55)」と違うねんけどな。(しまい)