E-BOMBERのアホアホブログ

アホなことであろうが何であろうが、わしは書きたいことを書く。ガンバレ○神タ○ガース!

(田辺聖子氏逝く)わしもマネした一人や

作家・エッセイストの田辺聖子氏が今月6日に逝去されたことを知って少なからず愕然としてる。

 

わしが泉州弁と河内弁をごっちゃにしたブログ書きやりだしたときかて、まず誰ぞのマネするとこから始めなあかんかってんやんけ。何するにしても先達がおった方が楽やさかいの。ほんで、誰のマネすんのがいっちゃんエエんやろかてものの数秒考えた結果、田辺氏のエッセイマネしようちゅうことになったんやんけ(でも田辺氏は伊丹やけどな)。それに「や○きた○じん」の要素をスパイスした結果、第1回目の「何も書くことあらへん」がでけてんやんけ。

 

わしが彼女の言い回しで最も気に入ったあるんが「(飲み過ぎて)肝臓いわした」やな(出典は多分『ああカモカのおっちゃん』)。大阪弁で腰を痛めることを「腰いわす」言うけども、まさか臓器にまでそれを使てる人がおるとは夢にも思わんかった。

 

おせいさんいうたらあの一遍見た忘れられへん容貌と、それを散らすためにやっとったとしか考えられへんあの極彩色の服装やな。昭和最後の辛口評論家の百目鬼恭三郎は自著『風の書評』で山藤章二の『新イラスト紳士録』には珍しく高評価を下しとったが、その中で「落合恵子というタレントが、山藤の絵は切り捨て型でなく暖かな救いがある、といっているけど、冗談じゃない。彼は徹底した悪意をこめて対象を切りさいなんでいるのである。世間に甘やかされてきた女の子にはそれがわからないし、山藤もまた、女性だと結構甘く描いているので(論より証拠。田辺聖子などは随分美人に描かれている)」。えげつない文章やでこれは。

 

なお、この『風』で富岡多恵子『当世凡人伝』を貶す件で、「これまで未知数だった富岡多恵子という作家の本質が、通俗文学向きであるということがこれではっきりしてきたようだ。ちょっぴりケッタイな庶民のオモロイ話を書く腕は、田辺聖子の姉たりがたく、妹たりがたし、というところで文学的な質のちがいはまるで認められないのである」て書いたあるから、百目鬼は田辺のことを評価してへんことが分かる。

 

しかも百目鬼は『続・風の書評』でも田辺の『文車日記』の評で、「古典を、それが成り立っている諸条件を無視して、自分の直観だけで読みとる場合には、間々見当ちがいの独断に陥ることがあるから、気をつけなければならない。また、先入観にとらわれてしまうと、せっかく諸条件を調べても、先入観につごうのいいように解釈されてしまうおそれがある」として、素人の浅薄さから来る危険性を指摘しながら否定的な評価を下したある。百目鬼梅原猛や上山春平の連中を「古代史バカ(否定的な意味で)」呼ばわりしたあるが、田辺も同様の理由で否定されたんやな。「この時代(引用者註・王朝時代)の和歌、文学を、現代人の実感主義で解釈するのは危険である(『続・風』)」ことは、高名な作家やったら分かりそうなモンやのに、それをしてへんから悪評が下されるちゅう訳やな。

 

せやけども、百目鬼にはどうもギャグやユーモアについての理解が全然なさそうに見える。それは『ツービートのわっ毒ガスだ』の評からも明らかやし、もしか北野武百目鬼の言うように「心身障害者の抹殺を口にし、差別主義万歳を絶叫(『同』原文ママ)」したら、芸能界どころかこの世から放逐されかねんわい。筒井康隆のナンセンスSFやユーモア作品についても、どうもその面白さが分かってへんようや。せやさかい、おせいさんのエッセイかて低評価になるんも当然やろう。百目鬼はある女流作家から「あの男は、佃煮ばかり食べて育ったにちがいないっ!(『同』)」てののしられたそうやが、その主はおせいさんか瀬戸内寂聴のどっちかやないかてわしゃ思うねんやんけ。まあ、彼にはそない罵られたかてしゃあない部分はある。

 

明日(11日)には曝書期間開けの近所の図書館行って、田辺聖子の著作を改めて読んでみたい思うけども、多分貸出やら何やらで一杯なったあるやろな。

 

とまれ、おせいさんもやっとカモカのおっちゃんの許に行けるようなったんやと考えることにしようやないか。これで91年もの長きに亘る「おせいどんアドベンチャー」も見事な完結を迎えたんや。合掌。